◎荘厳浄土寺(帝塚山東五ノ十一)
住吉神宮寺、津守寺と共に荘厳浄土寺は住吉三大寺として有名であったが、今は現存する唯一の寺となつている。
住吉神宮寺は住吉大社文華館付近から東へ通称桜畑とよばれる松林にあった。
奈良時代に仏教が普及するに従い、仏教から在来の神道に対して接近がはかられ、神前読経が行なわれたり、隣接して神宮寺が建立されるなどした。「本地垂じやく思想」すなわち菩薩(本地)は衆生を救うために仮に神の姿で現われる(垂じやく)、天照大神を大日如来とする、などのことがことに天台・真言両宗によつて教義化された。
住吉神宮寺は十八堂二重塔
住吉神宮寺は天平宝字ニ年に(七五八)孝謙天皇により建立されたというが、江戸時代の記録によると、仏堂八・僧堂十余あったといい、南大門を入ると東西に二重塔が並ぶ珍しい配置を示していたという。
しかし、明治元年(ー八五八)の三月に王政復古と祭政一致の精神にもとづく「神仏分離令」が出され、今まで下積みにされていた神社や神官が陽の目をみるようになり、そのいきおいのおもむくところ「排仏き釈」の運動にまで発展した。各地で寺院・仏像・仏具の破壊や焼却が行なわれ、特に神社からの仏教的要素の一掃が徹底してはかられた。住吉神宮寺も例外ではなく’堂宇は破壊され廃寺となった。
明治政府はまた、全国の神社に社格を新しく付与して系列化し、その頂点.に伊勢神宮をおいた。天照大神を最高位の神と認めない神社は不敬罪や治安維持法で弾圧し、宗教建物は破壊され宗教団体は解散させられた。
排仏き釈と国家神道化で利権
明治の廃仏き釈と国家神道化によって、多くの寺院・神社が破壊され、建物、仏漂、仏具、宝物、土地、樹木などが掠奪されたが、その器穢は全国で巨大なものになった。各地の権力者達が思わぬ利権にありついたのではないか。
今に伝わる「住吉おどり」は中世、住吉神宮寺の僧が勧進のためにこれをおどり全国を遍歴ひろめたものという。
津守寺の跡地は現在、墨江小学校内にある。津守寺は瑠璃寺とも称し、延喜元年(九〇ー)の創建である。住吉大社の本地堂で、そのため大社の造替のときにおなじく造り替えがあったというから関係が深い。本尊薬師如来像は住吉浦からの出現であるとか、あるいは京都の因幡薬師と同体像であるとか。明治初年廃仏き釈により廃寺。
荘厳浄土寺は津守氏が再興
さて荘厳浄土寺であるが、朝日山と号し、平安時代中期の創建と推定されている。応
徳元年(ー〇八四)住吉大社興隆の基礎を固めたとされる第三十九代神主津守国基が、白河天皇勅命により再興、十三年を費やし、永長元年(一〇九六)完成した。この工事中、土中より「七宝荘厳浄土云々」の銘ある金札が出土したので寺名にした。境内は方八町あったと伝え、現東大禅寺境内の通称弁天塚は、かつて浄土寺山とよばれ当時の庭園の築山であったという。永長元年の落慶法要は勅使と共に、講師に前権少僧都慶朝を迎え盛大に行なわれたが、その時の様子は「当国他国の結縁の輩数千市をなす。男女肩を並べ禅庭隙なし」と記録され、遂に男女数十人が池に落ちて溺死したといい、その池は万代池だという。
当寺は長い歴史の間に度々罹災し、特に天正年間(一五七三~九二)には織田信長の兵火によりことごとく焼失、慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼により寄進されたが、これも夏の陣、元和元年(一六一五)で焼失、元和六年の復興という。現在、境内地及び伝教大師作の木造不動明王立像、嘉元々年(一三〇三)の胎内銘をもつ木造愛染王座像は、いずれも大阪府指定史跡・文化財に措置されている。
荘厳浄土寺の寺名について
さて最後に、荘厳浄土寺という寺名についてであるが、これは云うまでもなく浄土経の中の、極楽には金銀で飾られた荘厳な宮殿があり、人々は念仏を唱えることにより、こうした美しい,清らかな世界に生まれ変わることができる、という話からきていると思う。
昔から、例えば藤原道長や豊臣秀吉などの権力者達は、臨終に際しては国宝級の仏像をいくつも枕元に立て、それらの仏像の手と自分の手とを紐でつなぎ、一方足元には高僧数十人を並べて、声高々に読経を続けさせたという。何故それほどまでのことをしたのか。答えは、あの世での閻魔大王の裁きが恐ろしいからである。
古今東西を問わず、権力者は独裁者であった。侵略にょり多くの罪なき人々を虐殺してきた。謀略により無数の政敵を落とし入れてきた。それらのツケの支払いが、死に際に迫ってくるのである。
この時に、いくらじたばたしようとも、独裁者は一番哀れな人間となる。庶民は臨終に際して、荘厳な浄土をイメージして自分をごまかす必要など一切いらない。自然のままで十分に成仏できる。
それに加えて、少しでも世のため人のために何かしたという自覚がありさえすれば、極楽浄土への到着はまず間違いないと、私は確信する。