今昔西成百景(007)

◎由緒ある西成区名

 私は現在手元に、「西成郡史」「西成区史」という二冊の郷土史の本をもち、それを参考にして、行政から見た歴 史ではなく、庶民の歩みを少しでも追っ ていきたいという立場から、敢えて予断の謗りをおそれず、筆を進めている。一二九一頁もある大正九年編纂の「西成郡史」をひもとき、まず最初に不思議に思うことは、西成郡の北の部分は淀川を挟んで現在の西淀川区・淀川区・東淀川 区・北区・此花区・福島区に当たり、次に大阪市の東区・西区・南区・北区の全 四区を飛び越えて、現在の西成区と住之 江区の一部が西成郡の南の部分に成って居ることだ。西成郡の多数派は決して西成区では無かった訳である。それでは、一体どうして少数派であった南部が西成という名を引き継いだのか。
 大阪市は大正時代に至って第一次世界 大戦の勃発等から経済界は空前の活況を呈し、その工業生産はわが国第一位となり、海運に於いても神戸・横浜をはるかにしのぐという有様で、大正十三年には すでにその人ロ一四三万人を突破し、接続町村も非常な勢いで増加した。そこで 当時の関市長は将来の都市計画の立場か ら、内務省が淀川以北はなかなか認めなかったが、遂に東成・西成の両郡四四ヶ町村の一挙編入を実現した。

歴史と伝統のある町

 大阪市は新編入四四ヶ町村を、五区の 行政区画に分けることにした。今宮町、玉出町、津守村、粉浜村の四ヶ町村で府 が市会に諮問の際は住之江区であったが、第三区の原案城東区が旧郡名東成を残して東成区と改められたため、市会答申で西成郡の区名も残すべきであるとして、西成区の名となり、これが最終的に決定されたのである。
 「西成区史」は「元来東成・西成の郡名は、奈良時代の元明天皇の和銅六年(七一三年)郡郷の名は好字で表しかつ二字を用うべしとされたことによって、それ迄の難波大郡・難波小郡がそれぞれ 東成(東生)西成の郡名に改められたものである。そしてその際の境界はおおむね上町台地の屋稜線であった。しかし当時の西成郡は小郡の名が示す様に、その区域未だ小であったが、年月が経るに従い陸地造成並ぴに市街地の形成は屋稜線の東側より甚だしく、今日の大阪市の殆ど全区がこの地域に発達した。従って西成郡の区域としては必ずしも現在の西成区域にとどまらなかったが、大正十四年の大阪市編入当時、北部の西成郡諸町村が、東淀川・西淀川に分割され、南部の諸町村においてこの由緒ある西成の名を残すべしとされたためである」と記している。

極楽区

 好字とは、めでたい文字の事であるが、「西成」とは、どこがどうめでたいのか。東成は、太陽に向かって実がなる、という事であれば、西成は矢張り、西方浄土を指しているのであろう。極楽浄土を区名にしている所は、全国でも例がないのではないか。因みに元明天皇は女帝、この時代全国で国分寺が建てられたが、農民は人夫として強制的にかりだされた。
 今大阪市は、日本共産党以外の自社公民オール与党体制の長期化で完全になれあっている。去る九月十八日、大西総務局長は次期市長選で現市長の後継者当選の為に、「選挙違反ぎりぎりまで、あるいは勇み足も有ろうかと思いますが、全力を尽くしたい」と事実上「市役所ぐるみ選挙」を指示する発言を行なった。その場に同席していた西尾市長はあとで 「私も同感」「今度はまだおとなしかっ た」などと居直っている。今年は西成区区政七十年、区の行事が「市役所ぐるみ選挙」で汚されないよう、全市民的な監視を強めなければならない。
(一九九五.一〇)

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