がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十四

◎二十四、万福寺と鉄眼寺

 近世中国の寺院の姿が完全なまでに再現されている、異質なまでの雰囲気に包まれた万福寺は、京阪宇治線で行くことができる。
 総門と三門の屋根は共に複雑な構成美と觥や宝珠で飾られて、巨大な柱はどっしりとした礎盤で支えられている。渡り廊下も様々な額や文様が目に付く。
 天王殿本尊の布袋和尚のでっぷりとした体とたくましい顔。
 さらに両側に居並ぶ十八羅漢像の怪奇な風貌。生命力に満ちあふれるとも云うべき仏像の数々。
 万福寺は中国の禅僧隠元を開祖に寛文元年(一六六一年)に開設され、全てが明代の伽藍配置になって造営されただけでなく、安置する諸像を造立するために、大陸から専門の仏工が招かれた。
 友子が話を始める。
 「造形面に限らず、万福寺では隠元の後をついだ木庵をはじめ、第十三世まで明の僧侶が住職を勤め、大陸の禅の伝統を守り続けたのね」
 次郎も続けて解説する。
 「江戸時代には宗教統制が厳しく、新しい一派をおこし寺院を建てることは難しかったはず。それを万福寺にあっては特に許されたのは、当時の幕府権力者たちが大陸文化に強い関心を持っていた結果ではないかと云われている。同時に、隠元を初めとする歴代の住職の厳しい宗風は、日本の近代仏教にいろいろな反省を促し、仏教界に清新な息吹を与えたとも云われている」
 次郎が少し話を変える。
 「それに関連した話を少しさせてもらうよ。大阪のミナミの繁華街、なんばに隣接したところに鉄眼寺という万福寺末のお寺がある。正しくは瑞竜寺と云うのだが、寛文十年(一六匕〇年)難波村の信者らが薬師堂に历福等から鉄眼和尚を請じてその再興をはかり瑞竜寺としたが、俗には鉄眼寺であった」
 次郎は小さく息継ぎをして、また話し始めた。
 「かねてから鉄眼は一切経という仏教に関する全集を出版することを一代の事業として取り組んでいた。広く各地を巡り、ようやく出版に着手せんとした矢先、大阪に大洪水が起こった。鉄眼は惨状を目のあたりにして、喜捨した人々に同意を得て、資金をことごとく救助の用にあてた。再び募金に着手して数年、宿願の果たすのも近いと喜んでいたところへ、大飢饉があ成、鉄眼は再び意を決してその資金をもって人々を救い、またもやー銭も残さなかった。二度集めて、二度救護に使ってしまった鉄眼だったが、かんぜんとして第三の募金に着手した。すると、意外にも鉄眼の深大なる慈悲心とあくまで初一念をひるがえさない熱心さが感動をよび、喜んで喜捨する人が続出。かくて、天和元年(一六八一年)、最初の募金開始から十八年後に一切経六千九百五十六巻の大出版がついに完成したんだ。これが世に鉄眼版と称されるもので、この版木は今も宇治の万福寺に重要文化財として保存され、現在でも大般若経や語録類が印刷されている。これが世に『鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり』と云われる所以なんだ」
 友子よ「ボランティア活動に勇気がわいてくる話ね」と感動していた。
 今日も下見の終わりには、次郎の兄の話になった。
 「お兄さんはお元気ですか」と友子が次郎に聞く。
 次郎は微笑んで「先日も、ディサービスで花見ドライブをしたとか」と答えた。
 友子は次郎の表情を見て安心した。
 「落ち着いているようで、よかったわ」
 「ありがとう、では、またね」

今昔木津川物語(018)

西成、浪速歴史のかいわいシリ—ズ(三)

◎鉄眼寺《てつがんじ》(瑞竜寺《ずいりゅうじ》)(元町一―一〇)

 瑞竜寺は、黄檗宗《おうばくしゅう》萬福寺末《まんぷくじまつ》にて薬師如来《やくしにょらい》を本尊《ほんぞん》としている。寛文《かんぶん》十年(一六七〇)難波村《なんばむら》の信者らが薬師堂に鉄眼和尚を請《しょう》じてその再興《さいこう》を図《はか》り、瑞竜寺としたが、俗《ぞく》に鉄眼寺と言われるのは、この鉄眼の再興による。昔は寺域《きいき》も広大であったが明治|維新後《いしんご》狭《せば》められた。仏殿禅堂《ぶつぜんせんどう》のほか天王堂《てんのうどう》・祠堂《しどう》・禅悦堂《ぜんえつどう》など有《ゆう》したが、戦災《せんさい》にて天王堂焼失を免《まぬが》れたほかほとんどの建物を焼失、現在の本堂などは戦後の復興《ふっこう》によるものである。

一切経《いっさいきょう》の出版《しゅっぱん》に全力を

 鉄眼は一切経という、仏教に関する書籍《しょせき》を集めた一大|叢書《そうしょ》にして、仏教《ぶっきょう》に志《こころざ》しある者にとっては宝物として尊《とうと》ばれるものが、其《そ》の巻数《かんすう》幾千《いくせん》の多きにつきわが国では出版が極《きわ》めて困難であることから、この一切経の出版を一代《いちだい》の事業として成就《せいじゅ》せんととりくんだ。
 広く各地をめぐり資金《しきん》を募《つの》ること数年、ようやく出版に着手《ちゃくしゅ》せんとした矢先《やさき》、大阪に大|洪水《こうずい》が起こった。

人を救《すく》うのが先だ

 鉄眼は惨状《さんじょう》を目《ま》のあたりにして「我か一切経の出版を思い立ちたるは仏教を盛んにせんが為め、仏教を盛《さか》んにせんとするは、ひっきよう人を救わんが為めなり、喜捨《きしゃ》をうけたる此《こ》の金を一切経の事に費《つい》やすも、飢《う》えた人々の救助《きゅうじょ》に用《もち》いるも帰《き》するところは一にして二にあらず、一切経を世に広むることはもとより必要な事なれども人の死を救うは更《さら》に必要なるに非《あら》ずや」と、喜捨せる人々に其《そ》の志《こころざし》を告《つ》げて同意《どうい》を得《え》、資金をことごとく救助の用《よう》に当《あ》てた。
 苦心して集めた出版費はついに一|銭《せん》も残らなかったが、鉄眼は少しも屈《くっ》せず、再び募金《ぼきん》に着手《ちゃくしゅ》して散年、宿願《しゅくがん》の果《は》たすのも近いと喜んでいるところへ、再び、近畿《きんき》地方に大|飢饉《ききん》があり、人々の困苦《こんく》は前の出水《しゅっすい》以上のものとなつた。鉄眼は再び意《い》を決《けっ》し、出版の事業を中止して、其の資金をもって力の及ぶ限り人々を救い又もやー銭も残さなかったという。

第三の募金に人々の感動

 二度資金を集めて二度救援に使ってしまった鉄眼だったが、敢然《かんぜん》として第三の募金に着手した。すると意外にも、鉄眼の深大《しんだい》なる慈悲心《じひしん》と、あくまで初一念《しょいちねん》をひるがえさない熱心さが感動をよんで、喜んで喜捨するものが続出《ぞくしゅつ》、製版《せいはん》・印刷も着々と進んだ。
 かくて、天和《げんわ》元年(一六八一)鉄眼が最初の募金を初めてから十八年後に至《いた》って、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂《つい》に完成したのである。これが世に鉄眼版と称《しょう》せられるもので、一切経の広くわが国に行われたのは、この時よりのことである。この版木は今は京都は宇治《うじ》の萬福寺に重要文化財として保存《ほぞん》され、現在でも大|般若経《はんにゃきょう》や語録類《ごろくるい》が印刷されているという。以上が鉄眼寺の由緒《ゆいしょ》である。

現代の「洪水・飢饉《ききん》」

 今、天災ではない人災《じんさい》としての、自民党政治のとんでもない悪政の結果、かつてない大|不況《ふきょう》がわが国をおおっている中で、特に大阪が深刻な影響《えいきょう》を受けていることはかくしようもない事実である。
 昨年の大阪市内の自殺者四百人、内西成区内で八十五人ときく。一昨年より倍
加しているという。
 また、大阪市内の野宿生活者約一万人。大阪城公園も長居公園も昔日《せきじつ》の観《かん》はなく、その結果、路上で凍死《とうし》などで亡くなる人、年間に市内で約三百人。
 以上は封建《ほうけん》社会のことではない、自民党が常日頃からほこっている「自由社会・日本」で現実に起こっていることの一部なのである。

見直しは福祉・教育の切り捨てとは

 一方、府政では、中ノ島に財界のための超豪華《ちょうごうか》な、不要不急《ふようふきゅう》な国際会議場が、横山知事の公約に反して、七百七億円もかけて建てられている。この税金の額は一万人の野宿生活者が五年間野宿でなく最低生活できるだけの額《がく》である。市は「オリンピックの誘致《ゆうち》」に、うつつをぬかしている。そして府・市共に、予算の見直しはもっぱら福祉・医療・教育に向けられているといるという。まったくの逆立《さかだ》ち政治の横行《おうこう》は目に余る。
 「鉄眼は一生に三度一切経を刊行《かんこう》せり」のことばの重みをかみしめながら、瑞竜寺からミナミの雑踏《ざっとう》へ 足を踏み出したらすでに夕刻《ゆうこく》であった。