今昔西成百景(034)

◎阿部野神社

 阿部野神社の本殿は阿倍野区、本参道は西成区にある。
 「当社はもと社格別格官弊社で、北畠親房公並びに顕家公を祭神としている。親房公は後醍醐天皇の信任厚く吉野朝廷第一の柱石で正平九年九月十五日年六十ニオで大和国賀名生に薨じた。また顕家公は親房の長子で元弘三年陸奥守兼鎮守府大将軍に任ぜられ、皇子義良親王を奉じて奥州の鎮めとして大いに功をたて延元三年親王と共に海道の国々を平らげ奈良につき、それより摂州阿倍野に戦い、同年五月二十二日年僅かに二十ーオで、父に先んじて薨じた」(西成区史)

当初は天下茶屋に祠を

 もと天王寺村大字阿倍野に大名塚と呼ばれる小丘があり、そこに「顕家卿之墓」と刻した墓碑が半ば埋没してあった。これを地元有志が当初天王寺村天下茶屋に祠を建設すべく運動したが時の渡辺昇知事が宮内省に上申して明治十五年に阿部野神社として祭られた。
 私は小学校のとき、よく学校行事で阿部野神社に参拝し、皇軍の「武運長久」を祈念させられた。玉砂利を敷き詰めた境内などから、さぞ由緒のある古い神社に違いないと思ってきたのだが、戦後に明治になってからのものだと知って意外だった。
 明治政府は、天皇親政を目玉にして、全国で天皇家に関連があると思われるところに、にわかづくりの官弊社や記念碑・忠魂碑を建てまくった。
 楠木正成を祭る湊川神社や、その子正行を祭る四條畷神社もそうだし、「初代の天皇」と呼ばれている神武天皇を祭っている奈良県の橿原神宮も明治を半ばすぎての二十三年になってからつくりだされたもので、橿原神宮が完全に出来上がるのは昭和十五年、いわゆる神武紀元二六〇〇年になってからの事である。
 当時、阿倍野高女の女子生徒たちも槌原神宮の敷地拡張整備ということで、勤労奉仕に行かされたということが、日記として残されている。

行政による歴史観の押しつけ

 西成にも天下茶屋公園の一角に、明治天皇駐蹕遺址碑が大きな石でつくられて立っている。明治天皇が明治元年に住吉神社参拝の途中一時立ち寄ったところということである。
 ところが、平成七年発行の区役所が実質的に事務局をして作成した、西成区コミュニティマップに、民間の力でこの碑を建立したことは「不朽の美挙である」との、最大級の賛辞を贈っているというのはどうであろうか。同マップは阿部野神社の説明文の中にも、「北畠二公が至
誠の精神をもって文化の発展、平和の実現に尽くしたことから祭神となっている」と、歴史の評価の一方的な押しつけをやっている。時代錯誤もはなはだしい。オ—ル保守、オール与党体制の大阪市が郷土史にふれると、とかく皇国史観の雰囲気の方向にリ—ドしていく傾向にあるということが、郷土史への興味をそいでいることを、もっと自覚すべきである。

「建武の中興」の犠牲

 源頼朝は武家政権を樹立し、以後貴族たちは公家(天皇家)に、武士たちは武家(将軍家)に属し、一五〇年にわたって公武二元政治がおこなわれていた。
 後醍醐天皇はこの時代の流れに逆行し、公家一統の政治を復活させようとの思いから討幕を行った。
 しかし、天皇とその寵臣たちの贅沢なあけくれ。恩賞の不公平。猫の目のように変わる法令。一方、農民は鎌倉時代よりも重税に苦しんだ。武士たちの不満もふくれあがった。
 矛盾と混乱の中で「建武の中興」はわずか二年あまりで崩壊し、再び長い戦乱の時代が始まった。私には人心のはなれた天皇のための負け戦に出陣していった、親房や正成たち父子の別れやあわれさのほうが「忠君愛国」よりも、しみじみと感じられる阿部野神社なのである。

今昔木津川物語(003)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(三)


阿部野神社《あべの じんじゃ》と大名塚《だいみょうづか》 (北畠三-七・王子町三-八)

 阿部野神社の雰囲気《ふんいき》は皇国史観《こうこくしかん》まるだしで、いつ来ても抵抗を感じる。参道《さんどう》両脇の石柱に「大日本《だいにほん》は神国《しんこく》なり」と刻《きざ》まれているが、戦後《せんご》の昭和四十八年の建造《けんぞう》で、時代|錯誤《さくご》もはなはだしい。
 正門《せいもん》の鳥居《とりい》近くに北畠《きたばたけ》顕家の等身大《とうしんだい》の銅像《どうぞう》が立っている。私は天下茶屋史跡めぐりのガイドをするときには、いつもこの前で次のように説明をする。

貴族《きぞく》の犠牲《ぎせい》となった顕家《あきいえ》

 「この神社の祭神《さいじん》は南朝《なんちょう》の重臣北畠|親房《ちかふさ》と顕家の父子です。二十ーオで戦死した顕家は、十六オで陸奥守《むつのかみ》兼|鎮守府《ちんじゅふ》大将軍に任ぜられるほどの秀才で、奥州《おうしゅう》を平定《へいてい》し、足利尊氏《あしかがたかうじ》が叛《そむ》いたのではるばる奥州から出動してこれを追撃《ついげき》し撃退《げきたい》。あと再び東下《とうか》するも、留守の間に尊氏が勢いを盛り返して反撃《はんげき》、楠木正成《くすのきまさしげ》が湊《みなと》川で戦死し、吉野に逃げた後暇醐《ごだいご》天皇が再度顕家を呼び返した。顕家は不利な戦いを各地でやりながら河内《かわち》へ到着《とうちゃく》したが、ついに堺石津《さかいいしづ》で戦死しました。天皇《てんのう》中心の政治を復活《ふっかつ》させて、再び甘《あま》い汁《しる》を吸《す》おうとした貴族たちの犠牲になったとしかいいようのない、二十一年の短い人生でした」

顕家も正成も諌言《かんげん》して戦死

 「しかしわずかに救《すく》いとしていえるのは、顕家が戦死する一週間前に後醍醐天皇に、戦争で疲弊《ひへい》した民の租税《そぜい》を減免《げんめん》すること。誤《あやま》った中央集権《ちゅうおうしゅうけん》を改めること。みだりに行幸《ぎょうこう》や宴会《えんかい》をつつしみ、愚劣《ぐれつ》な輩《やから》に政道《せいどう》へのさしでぐちをさせないこと、などの堂々とした諌言を行っていることです。これは顕家が決して天皇や父親のロボツトではなかったという立派な証《あかし》ではないでしょうか」
 「ちなみに楠木正成も戦死直前に、朝廷《ちょうてい》に厳しい内容の諌言の手紙を送っています。これらは『建武《けんむ》の中興《ちゅうこう》』や『王政|復古《ふっこ》』の実態《じったい》が阿部野神社の境内《けいだい》に掲示《けいじ》しているような立派なものではなく、逆にいかにひどいものであったかを歴史的に証言するものではないでしょうか」と。

大名塚は神社とは別の評価《ひょうか》

 阿倍野区北畠公園内に大名塚という塚があり、北畠顕家の墓《はか》なりと伝えられ、江戸時代の学者並川|誠所《せいしょ》の提唱《ていしょう》で享保《きょうほ》十八年(一七二四)に墓碑《びほ》が建てられた。
 明治になり半ば埋没《まいぼつ》しているものを再建し、昭和十五年に大阪市の史跡公園となり現在に至っている。しかし顕家が戦
死したのは堺の南、石津川《いしづがわ》という説が有力であり、大名塚が果たして本当に顕家の墓であったのかは今も疑問である。
 北畠公園内の案内板をみておどろいたことは、顕家の諫言問題を高く評価し詳《くわ》しく説明しているという点であった。私は文献《ぶんけん》で知り独自に述べていたのだが、ここでは地元|顕彰《けんしょう》会の人々が、平成三年に新たに案内板をつくり顕家を再評価してしらせている。
 阿部野神社では北畠親房らの「神皇正統記《じんのうしょうとうき》」の立場が激越《げきれつ》な調子で押しつけられてくるが、阿部野神社創建のきっかけとなった大名塚では違っている。

つくられた「忠臣」や哀れ

 多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが、鎌倉時代よりも重い年貢《ねんぐ》、課役《かえき》、税金《ぜいきん》で農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児《ちょうじ》たちは、富貴《ふうき》を誇《ほこ》り、贅沢《ぜいたく》な暮《く》らしをし、酒宴《しゅえん》、蹴鞠《けまり》、歌舞遊山《かぶゆうざん》にあけくれていることを、具体的《ぐたいてき》に厳しく諌言した顕家が支持《しじ》されている。
 政権の腐敗《ふはい》を知り、激《はげ》しくそれを批判しながらも、結局《けっきょく》は人心の離れた朝廷を保持《ほじ》するために、負け戦と知りつつはるばる奥州から再度出陣せざるを得なかった「忠臣」顕家の哀れさが、後世《こうせい》の人々の心を打つのだろうか。
 楠木正成も正行《まさつら》の場合も同様である。

 今回は、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

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