今昔木津川物語(015)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(五)

◎高砂《たかさご》神社-高崎《たかさき》神社(北島ニー一四・南加賀四-一五)

 昭和九年(ー九三四)九月二十一日午前八時前、空前《くうぜん》の規模《きぼ》の台風《たいふう》が大阪を襲《おそ》った。この台風は、室戸岬《むろとみさき》測候所《そっこうじょ》で九一ニミリバールとい、っわが国の陸上測候所でも最も低い気圧を観測《かんそく》したのを記念して、「室戸台風」と命名されたが、大阪では瞬間《しゅんかん》最大風速六十メートル、高潮《たかしお》の高さ五・一メートルを記録《きろく》した。
 このため大阪市域の三分の一にあたるところが浸水《しんすい》し、十日間水浸《みずびた》しのところもあり、被害《ひがい》は甚大《じんだい》であった。
 住之江区では大和川の堤防《ていぼう》が決壊《けっかい》し、十三間堀川より西の全域が一メートルの高さまで浸水、家屋が流失したり学校が全壊するなどした。
 当時私の家は大和川の堤防近くにあったので、まともに洪水に見舞われた。父は公務員をしていたので、家族を置《お》いて直ちに出勤。母は六オからーオまでの子供三人を抱えて必死の思いで避難《ひなん》したと、その後何度も聞かされた。私が生まれたのはその時に転宅をした住吉区の遠里小野《おりおの》で一年程してからのことであるが、母や兄の話で子供の頃には実際《じっさい》に体験したような気持ちになったものである。
 台風後の高潮対策として大和川は、河ロから上流約九百メートルにまでО・Pプラス五・五メートルの堤防《ていぼう》に補強された。木津川も十四年までに防潮堤工事が行われた。

村の鎮守《ちんじゅ》の神様

 かつての新田《しんでん》開発者《かいはつしゃ》たちは例外《れいがい》なく鎮守の神社を建てたもので、桜井《さくらい》(元|加賀屋《かがや》)甚兵衛《じんべえ》は元文二年(一七三七)北島新田開発のさい高砂神社を創建《そうけん》した。甚兵衛は出身地河内国石川郡|喜志《きし》村(元富田林市)の産土《うぶすな》神である水分《みくまり》神を勧請《かんじょう》した。祭神《さいじん》は水分神の他に人丸神、住吉大社。天保《てんぽう》六年(ー八三五)本殿が焼失《しょうしつ》したが同十年再建された。
 高崎神社は宝歴《ほうれき》五年(一七五五)桜井甚兵衛が産土神《うぶすながみ》の水分神《みくまりのかみ》を勧請して大和川|河口《かこう》に祭り、現在地に天保八年(一八三七)に移築《いちく》したもの。同時に天照大神《あまてらすおおみかみ》と柿本人麻呂《かきのもとひとまろ》を合祭したという。一方社伝では、天保六年高砂神社焼失後、新たに加賀屋新田の氏神《うじがみ》として天保十年 (一八三九)に創建されたとなっている。
 天満宮《てんまぐう》は天王寺村天下茶屋の柴谷利兵衛《しばたりへい》と在地《ざいち》の住人《じゅうにん》が新田開発のさい鎮守のため勧請したといわれる。

加賀屋新田会所跡

 高崎神社の近くに加賀屋新田会所跡がある。桜井甚兵衛の新田支配者として宝歴四年(一七五四)に設《もう》けられたもので、甚兵衛の居宅《いたく》でもあった。広さ四千九百五十平方メートルに及ぶ庭内《ていない》は戦災《せんさい》を免れ、小堀遠州流《こぼりえんしゅう》の築山林泉式庭園や鳳酪酊鳴亭《ほうらくていめいてい》と称する数寄屋風《すきやふう》建物が現存し、大阪名園の一つになっている。但し現在は大規模な補修中で外からしか見られないが、いづれ公開されるという。

青春の思い出残る街

 またこの近くには、人形劇団「クラルテ」の発足当時の事務所と稽古場《けいこば》が今でもあり、その横には五十数年前の「防空壕《ぼうくうごう》」が保存されている。
 私は丁度《ちょうど》四十年前に、浪速区|勘助町《かんすけちょう》の日本共産党木津川地区委員会の事務所から、自転車に乗ってこの辺《あた》りまで「赤旗《あかはた》」新聞を配達していた期間が五年程あった。雨の日も風の日もペダルを踏んで毎日やってきていた。今歩いてみると、この町は特別に時間がゆっくりと過ぎていくかのような不思議《ふしぎ》な気持ちにさせられる。原因は町の南側が全て大和川の土手になっているため、通過自動車が少ないからである。
 大和川の堤を草を踏み固めるようにして登っていくと、急に視野《しや》がひらけてさわやかな風が顔を打つ。堤防の上の道は遊歩道になっていて歩行者天国だ。素晴《すば》らしい夕陽に向かって気の合った仲間と散歩をすれば心がいやされるし、また河上へ朝日を浴びて「浅香《あさか》の千両《せんりょう》まがり」辺りまで歩きとおせば新しい勇気も湧いてくるような気がする。