今昔西成百景(020)

◎木津川筋造船所

 「鬼の佐野安、地獄の名村、情け知らずの藤永田」と、今で云う三K(きつい・きたない・きけん)の典型であるような、木津川筋各造船所の職場の実態を、労働者達は永年そう呼んできた。
 昭和四三年刊行の「西成区史」によれば、佐野安船梁株式会社は、明治四四年浪速区木津川一丁目の地に佐野安造船所として佐野川谷安太郎の個人経営で創業。大正五年木津川三丁目に移転し、同ー二年西成区南津守にあった千本松船梁鉄工所を買収し翌年一月移転、昭和一五年六月現社名となった。敷地九三七六六平方米を有し、新船の建造並びに改造を行っている。従業員数一二三七人。
 西成区には属さないが隣接するものとしては株式会社藤永田造船所と株式会社名村造船所があり、藤永田は三六七〇〇〇平方米におよぶ工場敷地と、ニー九〇人の従業員をもち、元禄二年(一六八九)兵庫屋の屋号をもって大阪市北区船大工町の地に創業したという歴史をもつている。また名村造船は明治四五年三月大正区難波島の地に創業、現在は九二〇〇〇平方米の敷地とー〇〇〇余名の従業員をもっとある。
 特に佐野安と名村は共に強烈な個性をもつ創業者の個人経営にも等しい同族会社として、封建的な労使関係が戦後も温存されてきており「鬼」・「地獄」と云われていたのであろう。藤永田は戦時中は軍艦を造っており、海軍の秘密工場であった。

わが青春の日

 一九五五年四月、私は「地獄」の臨時工として働いていた。旨くいけば六ヶ月後には本工に成れる可能性もあり、それを楽しみに、毎日葦原の中に出来た工場の正門までの一直線の道を、自転車を飛ばしていた。昭和三〇年、戦後一〇年目にして巡ってきた造船ブ—ムであった。
 当時は大変な就職難で、私が堺商高を卒業するとき友人が福助足袋に入社したので、大変羨ましく感じたことを今でもよく覚えている。
 しかし、名村は矢張り「地獄」であった。まず驚いたことは、労働災害の多いことである。転落、爆発と毎週のように専属の病院へ運ばれていった。死亡事故も川筋では毎月のように発生し、みんな不安な気持ちで働いていたが、犠牲者のほとんどが臨時エ・社外工で、原因や対策等についてもいつもうやむやにされていた。会社の幹部が役員をしている名村の労働組合などはたまに朝礼で「黙祷」をやる位であった。
 名村では噂の通り、社長が毎日ステッキを持って工場内を見まわった。彼が少しでも労働者が怠けていると感じたら、容赦なくステッキが飛んだ。いくらヘルメットの上からだといっても痛いし、しかもお付きの部課長等の目前のことである。今ならこんな奴隸扱いは人権問題になるところである。雨になると必ず社長は動きはじめた。当時の造船所の仕事は殆ど野外でするので、雨がひどくなれば労働者も適当に雨宿りする。それを追い出しに社長は飛び出すのだ。部課長は現場に先回りをして、労働者を脅したりすかしたりして仕事につくよう指示する。それでも「そんな危険なことはさせられん」とうごかない本工もいたが、ほとんどは雨のなかを臨時エ・社外工を追い立てていった。

最初の職場でクビ切り

 その年のー〇月に、私は本工になれるどころか、契約期間の満了を通告され解雇されてしまった。私は名村に入る直前に地域で日本共産党に入党し八月には、広島で開催された第一回原水爆禁止世界大会に地域の代表として参加していた。その報告集会のポスタ—に小さく名前が出たのを、どうやら知られたらしい。
 年末を目前にして、私は友人の紹介で藤永田造船所内の桂組という下請けの会社に入り社外工となった。桂組では賃金の半分以上をピンハネし、その上残業や休日出勤の割り増しも無かった。社長の郷里から中卒の少年を数十人連れてきて、寮に住まわせこき使っていた。社長は自称右翼の大物で、相撲取りの様な大男であった。私と友人はこんな無権利な状態を無くすためには、社外工の組合を結成してたたかう以外にないと、少年達も巻き込んで慎重に準備を進めていった。ところがいよいよ旗揚げする前日になって、年配の準備委員の中より「事前に本工の組合に連絡しておき、まさかの時に援助してもらおう」との意見が出されてきた。私はそれでは会社に筒抜けになる、と反対したが、大勢は不安感からそうなってしまった。本工の組合では役員が私達からねほりはほり聞き出した。桂組の社長はその夜寮に乗り込み、少年達全員に準備会からの脱退を約束させ、始末書を取った。

労働組合づくりに失敗

 当日、私だけが離れた現場へ行かされ、昼休みに急いでハウスに帰ると、すでに社長が皆を集めて大演説中。今後は労基法どうりにするから、皆の待遇も良くなる。その代わり労組はつくるな。赤旗が立てば会社ごと藤永田からほりだされてしまう。「アメとムチ」の戦術で攻め、最後は「アカのオルグに騙されてはいけない」のデマ宣伝だった。
 最後に社長と対面した私に、「右翼の大物である俺をきりきり舞いさせたんだから君も満足だろう」と、ーケ月分の予告手当てを付けて解雇を宣言した。理由は名村での職歴が書いていなかったのは、履歴詐称だとのことであった。私は、労働者の要求がほぼ入れられたこと、仲間一人を残せたことで今後に希望をつないで、ひとまず退いた。
 私はその後約ーヶ月間、関電多奈川火カ発電所の建設現場に潜り込み、飯場生活をしながら電気溶接技術の特訓を受け、再び木津川筋に戻りそのまま佐野安船梁内の岩田工業に入社した。佐野安の労組は中立系で、名村や藤永田程の「御用」ではなかったが、それでも矢張り本工中心には変わりはなかった。
 その頃から党の「社外エ対策会議」に私も出席するようになり、下請けの場合は一社だけではかなりむつかしいということや、権利意識の大量宣伝や日常的な相談活動による、川筋規模での活動家の結集が必要だと討論された。木津川社外エ労働組合は数年後に結成された。

やさしかった現場労働者

 二三才で党の専従者になるまでのわずか数年間の経験で、私は木津川筋の造船労働者の中で多くのことをまなんだ。団結の素晴らしさとむつかしさ。都市と農村。大企業と中小企業。右翼や自民党・民社党・社会党の実態。御用組合の役割。そして何よりも、社外エ・臨時工という最も下積みな労働者の中で、最も献身的に活動しているのが日本共産党であり、私自身がその一員として頑張っているという実感。私の党活動の原点はやはりここにある。
 今、木津川筋造船所群のかつての姿はない。代わりに数百の中小企業からなる企業団地が出現している。しかも民主的な運動から実現したものであり、私も微カながら協力させてもらったことは誇りである。

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