西成・なにわ歴史のかいわいシリーズ(一)
◎俳人 小西来山 (恵美須西ニ- ー)
涼しさに四つ橋をよつわたりけり
来山
大阪特有のタ凪に、たらいで行水をして汗を流し、浴衣姿でうちわを手に、めいめいの家から長いすなどを持ち出して、夕涼みをする。向う三軒両どなりとの交流も、このとき適度に行われる。これが、大阪の下町の、各戸にクーラーが入らなかった昭和三十年代中頃くらいまでの、生活のチエであり、風物詩でもあった。
江戸時代の大阪を代表する俳人、小西来山は、先の句にみられるように船場の薬種商に生まれ、名を伊右衛門、俳号を来山、雅号を十萬堂と名乗った。
井原西鶴、与謝無村、小西来山はいずれも大阪商人の出身で、来山は井原西鶴とは同門で、来山が弟分にあたる。
野暮な奉行に追放され今宮へ
この来山に、正徳四年(一七一四)の暮れに思わぬ災難がふりかかってきた。
お奉行の名さえ覚えず年くれぬ
来山
年の暮はだれでも忙しいまして商人にとっては必死である。たまたま、その暮れに大阪町奉行の人事異動があったが、商人にとってはそんなことは知ったことではないと、思わず一句詠んでしまったのだろう。
ところが、これが奉行鈴木飛驛守の目に止まり、奉行を軽んずる句を詠むとは何事かとばかり、船場からの所払い処分を、うけることになる。
やむなく来山は、店を子にまかせて、今宮戎神社の近くに十萬堂と名付けた隠居家を建て、一層作句活動にはげむ。田園風景豊かな今宮の自然にいだかれて、来山は移ってから二年後の亨保元年 (一七一六)六十三歳の生涯を終えた。
著書として「大福寺覚帳」「今宮草」などを残している。
小西来山句集より
見返れば寒し日暮れの山桜
春風や堤ごしなる牛の声
時雨るるやしぐれぬ中の一心寺
尚、小西来山の遺跡の碑は、阪堺電車恵美須町駅西側にある。
知名度だけで中味がないのでは
さて、今度の一斉地方選挙では、大阪府知事に知名度抜群の現知事が再選されたが、果たしてこれでよかったのかと思わざるをえない。
テレビの画面ではよく知っているが、現実には会ったことも話したこともないというのが府民のほとんどのはず。まして今回は「公約はない」というのだからこの知事に知名度だけで白紙委任をしたことにならないだろうか。
明らかなことは、財政赤字のため福祉・医療・教育の予算は切り捨てるが、財界のための大型開発事業は計画通り進めるという、自民党型の府政を強引に行うという政治姿勢のみ。その結果は、府と府民の暮らしが共倒れになることだけははっきりしている。
名前を覚えられずに怒る奉行も情けないが、中味がなくても通用する知事の府政の方がもっと恐ろしい。
「西成でも山は動いた」
一方、幸いにして私の方は八年ぶりに返り咲くことができた。当選後いただいたハガキの中に、「永年の地道な努力が実を結ぶのだという事実を見せて頂き、感動しています」と書いてくださったのがあった。
選挙戦の終盤に入り、自民党現職の陣営が、激しく巻き返しに出てきたときに自分たちの生き方の問題として、数千の人が自発的に票をひろげて立ち向かって下さっていることを実感した。
「ついに西成でも山は動いた」、私達は感動と感謝の気持ちを表現する言葉もなかった。
公約と区民要求実現のため、大阪と西成をよくするために、今こそカ一杯がんばりたい。


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