西成、浪速歴史のかいわいシリ—ズ(二)
◎通天閣 (恵美須東一)
近くに住んでいながら、通天閣《つうてんかく》にはあまり昇ったことがなく、大変申し訳なく思っている。しかし、私の人生にとっては矢張《やは》り通天閣は、なくてはならない「登場人物」の一人にちがいない。
旅行や出張から帰ってきたとき、電車の窓から通天閣の姿が見えてくると、肩の力が抜けていくように感じるのは、決して私一人ではないと思う。
高度成長《こうどせいちょう》のシンボルか
そして、私が一番印象《いんしょう》に残っているのは、まだ南海電車に住吉公園行の各駅停車の路線《ろせん》があったころ、毎週のようにナンバに出ては千日前の「はつせ食堂」で大盛りのきつねうどんをかきこみ、セントラル劇場かオリオン座で、二本立ての洋画を見るのを楽しみにしていた頃のことである。
ある日、まだ映画の世界から戻《もど》りきれないままに、鈍行《どんこう》の電車の窓から眺《なが》めた新世界の夜空に、こつぜんとしてネオン輝く新通天閣が出現したのである。
車内にはどよめきと歓声《かんせい》が起こったが、私にはその巨大な建造物が何か資本主義の象徴《しょうちょう》のように思えて、反発して、無視するような態度に出たのを今も記憶している。堺商を卒業後、十数ヶ所の職場を転々とし、やっと南津守の名村造船所の臨時工として落ち着き、本工採用を目指しながら、一方で労働運動に関心を持ち始めた二十歳《はたち》前後のことであった。
「千人針《せんにんばり》」も弾圧《だんあつ》された
実は私には、戦前の通天閣に昇った経験《けいけん》がある。
しかしその時の通天閣は暗く、重たく、冷たく、不気味《ぶきみ》でさえあった。
私は母とその母である祖母《そぼ》と三人で夜の通天閣に昇ろうとしていた。しかし、いくら待っても二人が来ないので見にいくと、二人は通天閣の入口で「千人針」の女性達にかこまれ、懸命《けんめい》に白い布に赤い結び目をつくっている最中《さいちゅう》であった。
戦前《せんぜん》、召集令状《しょうしゅうれいじょう》が送付《そうふ》されると男たちは、それを拒否《きょひ》することができず、数日のうちに問答無用《もんどうむよう》で軍隊《ぐんたい》に入営《にゅうえい》させられた。
その妻、母、姉妹、恋人達は、たてまえはともかく「生きて帰ってほしい」と心の中で願わぬものはいなかった。「武運長久《ぶうんちょうきゅう》」を祈《いの》るとして千人針はつくられたが、本当は彼女達の思いが具体的に表現できるぎりぎりのものであった。
一方、贈られる側の兵士達にとつても、迷信《めいしん》をこえて肉親や恋人達のぬくもりが残る唯一《ゆいいつ》の形見《かたみ》となったのである。
ところが憲兵隊《けんぺいたい》では、この千人針を出征《しゅっせい》がスパイに知られるとして、停止せよとの秘密命令を出し、愛国《あいこく》婦人会や国防《こくぼう》婦人会にも、協力をしないようにと圧力を加えてきていた。そのため出征家族の女達は時間に追われて死《し》に物狂《ものぐる》いでかけずりまわった。
千人針は千人の女の結目《むすびめ》が必要だが、寅年《とらどし》生まれの女は「虎《とら》は千里を走り、早く行って早く帰る」にひっかけて、特にその年齢《ねんれい》の倍だけ結目をつくってよいというので、寅年生まれの祖母が足止めをくっていたのである。
大阪の街の見納めに
初代通天閣のエレベータ—は、まるで鉄の檻《おり》のようで、展望台《てんぼうだい》から大阪の街がどれだけ見渡《みわた》せたかもまったく覚えていない。どうしてそんな時期《じき》にしかも夜に、母と祖母がなぜ通天閣に昇ったのかも不明である。
故人《こじん》となった両人に今更《いまさら》聞きようもないが、ひよっとしたら大阪が大好きだった親子が、ひそかに最後の別れを告《つ》げようとしたのかもしれない。
通天閣は軍部に抵抗《ていこう》した
この通天閣もー九四四年(昭和十九年)二月には解体《かいたい》され三百トンのくず鉄となり、金属献供運動《きんぞくけんきょううんどう》の一環《いっかん》として供出《きょうしゅつ》されたのであるが、実はその一年前に新世界の大橋座という映画館から出火し、通天閣も真つ赤に焼かれ使いものにならなくなっていたのである。
通天閣はその前に、自慢の長身が空襲《くうしゅう》の目標《もくひょう》になるとの批判《ひはん》をかわすために、全身に迷彩《めいさい》をほどこすなどの必死の抵抗を試みていたのであり、決して軍部の圧力《あつりょく》に屈して解体を許したのではないということを、歴史の真実として知っていてほしい。
編者注】画像は、一代目と二代目通天閣(Wikipedia と原本より)
“今昔木津川物語(017)” への1件の返信