がもう健の郷土史エッセー集「今昔西成百景」に掲載された「西成の空襲」の手記を数回に分けて、掲載します。手記の投稿者は、イニシャルにとどめ、文中の人名も、同様にしたところがあります。
図は、「第1回大阪大空襲による被災地域■赤の地域」(「大阪市内で戦争平和を考える」から、部分切り抜き)
西成の空襲
昭和二〇年一月一九日午前〇時、B29一機が津守町に爆弾を投下したのが西成の空襲の最初である。
つぎに二月九日午後八時五七分に、辰己通り、津守町が爆撃された。三月一三日午後十一時三〇分頃から約三時間にわたるB29、約九〇機による大阪市中心部への本格的な大空襲では、西成の被害状況は、全半焼戸数一万四四六一戸、罹災者数五万七九一七人、死者二四六人、重軽傷者二四ー七人となっている。その後六月一日、一五日、二五日といずれもB29による焼夷弾、爆弾の被害を受けた。
なお、戦災により罹災した区内の、王要建物は、西成警察署、今宮市民会館、花園・橘・西天下茶屋各公設市場、市営今宮・玉出各質舗、府立今宮工業高校、大日本紡績津守工場、 岸里・長橋・開各国民学校。
西成で三度空襲に
M.M.さん寄稿
昭和一九年、私が中学校三年生の年になると「学徒動員」で軍需工場へ応援に毎日通うことになりました。その日から学校や教科書とは無縁の「学生生活」が敗戦後まで続くことになったのです。
私の動員先は住之江区に現在でもある三井造船藤永田造船所でした。南開の家から出島行きの阪堺線で通い、作業現場では朝から夕方まで船のスクリューの研磨作業をやりました。まわりは兵役を免れた年輩の人や身体の少し不自由な人、そして捕虜のオランダ兵や朝鮮の人がいたのを記憶しています。
話し相手の友達もいない暗い「青春時代」でした。
敗戦までの間で藤永田以外に和歌山の海南の山の上に壕を掘る作業にかり出されたことがあります。つらい作業でしたが、動員された学生達が一緒に集められ醤油蔵にむしろを敷いて「宿舎」にしたため、久しぶりの級友たちと一緒のひとときを過ごせたことを覚えて います。
そういう特別の機会をのぞくと本当に何の楽しみもない時代でした。働き終えて家に帰ると電灯に黒い布をかぶせる日が増え、唯一の娯楽のラジオも「大本営発表」と軍歌しか聞こえてこなくなっていました。
昭和二〇年、 エ埸でも自宅でも相次いで空襲に合うことになったのです。
空襲を最初に経験したのは後に『大阪大空襲』とよぱれることになる昭和二〇年三月一三日未明のものです.
生まれ育った南開の家の周辺か跡形もなく焼け落ちました。
真夜中、 空襲の知らせにあわてて家財を荷車に乗せ、一旦自分の部屋に本を取りに帰った私は、窓ガラスが燃えるように真つ赤になっているのを見て足が震えたことを今でも記憶しています。
気がついたところは畑の真ん中でした。近くの牧場から、角を火に巻かれた牛が狂ったように逃げる姿が目に焼き付いています。
四、五時間経ち夜が明ける頃にまわりを見ると、家財を積んだ荷車も、住み慣れた町並みもみんななくなつていました。焼け跡の金属は溶け、アメのように曲がっていました.私の家だった場所に立つと、こんなに狭かったのか」と思いました。
近くの今宮第七小学校の校庭には真っ黒になった死体が山のようにつまれていました。近所の人の安否もわからず、自分が生きているのが不思議に感じたものでした。
その日、すすだらけの真つ黒な姿で南海線に乗り、 岸和田の親戚を頼って焼け跡を離れました。
柳通りの西の端「阪南ゴム」の隣、向かいが千本北の岡島金物店の家(当時柳通り七丁目)で受けた空襲は油脂焼夷弾による被害でした。特に記憶に残っているのは雨の日の後などになると、まるで火の玉のような炎が上がったことでした。あれは焼夷弾の中に含まれていた”黄リン” (?) が発火して起こる現象だったようです。
空襲体験はまだ続きます。学徒動員先であった藤永田造船所にも昼間に大がかりな爆撃がありました。現場で海防鑑のスクリューの歯車を研磨していたときです。
最初は会社の防空壕に飛び込みました。しかし爆撃は激しくなるばかりです。とにかく逃げました。北加賀屋の工場から天津橋方面に向け必死になって逃げました。なぜか飛行機の臭いがしました。木津川筋の造船所全部が燃え上がり周囲は真っ黒の煙が覆っていました。
住之江公園にたどり着いたときやっと自分が裸足であることに気づきました。死体の山を見たのもこのときでした。ー五歳の時の思い出です。
終戦は藤永田造船所でむかえました。昼に集められた私たちに何を言っているか分からないラジオ放送が流され、「戦争負けたらしいで」との誰かの声でいつのまにか三々五々自宅へと帰ることになったそのころ四国松山に疎開していた弟や妹たちは大阪に引き上げる途上で伝染病の大量発生と出会ってしまい香川県観音寺でその年のーー月まで隔離されていました。このときまだ一歳だった一番下の妹が亡くなりました。
大阪の私たちも焼夷弾が落とされた家(柳通り七丁目)に住み続けることが出来なくなり、当時父が借家として持っていた柳通り六丁目の家へ引つ越すことになりました。現在の場所で言うと西天下茶屋の駅から柳通りに抜ける商店街の豆腐屋さんのところです。
戦後の生活は男の子が私を入れて四人、妹たちが三人の七人の子供を育てる大変なものでした。
父は青果ものを荷口に積んで行商を始めましたがそれだけでは足らないのは明らかでした。結局八軒持つていた借家を売却し生活費に充てたようです。しかも当時の家の値打ちは非常に低く、今では考えられないことですが家を売った代金はミカン箱に入った石鹼と交換されたのでした。その石鹼が現金や食べ物へとかわっていったのです。
まさに”売り食い“の時代それが私たち一家の戦後のスタ—卜でした。
“今昔西成百景(024)特別編「西成の空襲」①” への1件の返信