今昔西成百景(025)特別編「西成の空襲」②

◎忘れられない室戸台風と空襲、そしてなつかしい玉出のくらし
F.R.さん寄稿

編者追加・注】左図は、室戸台風で全壊した四天王寺の五重塔(Wikipediaより)、右図は、戦災焼失区域明示大阪市地図・昭和21年(1946)大阪歴史博物館

 昭和九年、その頃父は京阪電車に勤めていて、一家は吹田市岸部の社宅に住んでました。木津で「簾屋」をしていた祖父が亡くなったので、仕事のかたわら、店を継ぐ決心をした父は、親類の口利きで玉出本通り四丁目五七番地の家を借り、一家は引っ越しました。同時に兄は玉出第三尋常小学校(現千本小)の高等一年に、私は同校小学一年に入学しました。当時現玉出小学校を玉出第一、現岸里小学校を玉出第二とよんでいました。
 引つ越してきた家は、 間口は五枚扉で庭が広く、裏では「葦」を入れる倉庫の他に畑をつくり、なお自転車の練習が出来ました。「すだれ」と一口に云っても、家の前に立て掛ける「草簾」からまんじゅう屋の蒸し器の「す」や、家の中で使うふちにへりを付けた「御臓」や「衝立」など多種多様で、ほとんどが注文でした。材料の「よし」や「がま」の芯や「すすき」などは大正区の三軒屋から、大八車で運ばれてきました。
 寸法取りをして作業の段取りをするのが父で、道具を使って手作業で作るのが母と仕事の役割分担が決まっていました。季節商品でもあり、需要期には大忙しで「葦」を干したり、皮をむいたり、長さを揃えたりするのが子供たちの仕事になり、一家総出で働き夕食はいつも夜の九時、十時になっていました。この頃のことが、私の一番楽しい思い出になっています。
 この年の九月二十一日に室戸台風が大阪を直撃し、 玉出第一尋常小学校の校舎が倒れて兄が死亡しました。この日は朝から雨が降っていましたが、兄は友逹と一緒に元気良く学校に行きました。当時同校は二部制をとっており、私たち低学年は昼からの登校でした。午前八時頃より風雨が强くなり、 すぐに屋根瓦が木の葉のように舞い飛ぶ程の猛烈な台風となり、八時五分にはついに瞬間風速六十メートルを超える記録的なものとなっていたそうです。
 台風が通過してから、近所の子供らが帰ってきて、学校が倒れたと聞いて人々がさわぎだしました。兄が帰ってこないので母が心配して、もしやと思い、勝間街道の阪南病院に見に行ったがわかりませんでした。実は千本通りの角の宮本医院に収容されていたが、気が付かなかったのです。
 ほどなく兄の遺体が担架で運ばれてきました。私はショツクで熱を出して、山口医院の先生に往診に来てもらい、リンゲルを打ったことを覚えています。担任の先生の話では、「危ないから出て向かいの校舎に移れと云って一旦は教室を出たが、彼は極度の近視のためメガネが雨でくもって見えなくなるので、傘をとりに戻ったのではないかと思う、その直後に校舎が倒れた」ということです。この日同校では九名の子供が死亡、重傷二十四名、軽傷六十名という突然の大惨事となったのです。
 空襲前の生根神社周辺は、神社の西隣が光福寺つづいて郵便局、洗い張り屋と並び、その隣が私の家で、更に西へ化粧品屋、表具屋、下駄屋、サンパツ屋でした。その横手の露地から「十軒さん」と呼ばれる長屋が南に向かってあり、十軒さんの西隣に饅頭屋さん、その横に町会長の藤田さんの大きな屋敷、岩見医院、材木屋、和ローソクをつくっていた店。露地を挟んで雑穀屋から数軒の住宅を経て、大江の油屋さん、更に西へ米屋、ハ百屋、住宅があって土手と呼ばれていた道路があり、それに面して馬力屋、鉄工所、住宅が軒を並べていました。その裏に十三間堀川があり、橋が架かっていてお盆の精霊流しには、橋の下に伝馬船が来ていました。
 生根神社の前の捋源寺から西へ、道路に面して門構えの家が並んでいて、酒屋、小川燃料屋、釣具屋住宅があって「東青果市場」があり、更に西へ行って「西青果市場」がありました。
 生根神社から東へ国道二い六号線の間にも、歯科医や骨接ぎ屋があり、玉出本通りに映画館をもっていた家を挟んで、角に薬局がありました。玉出本通りの向かいの角が牛乳屋で、数軒おいて戦後洋服の月賦販売でおなじみの日丸さんがあって隣が質屋、更に商店があって細い露地を挟んで西へ誓源寺へとつづいて行きます。近くに風呂屋も数軒ありました。もちろん、現在の玉出中学校や玉出西公園はなく、かわりに住宅や店舗が密集していました。 ・
 国道より東側の玉出本通りは商店街で、映画館や公設市埸、領木百貨店等があり、帝塚山の方からの買物客も多く上品な雰囲気のあるところでした。
 当時の生根神社の境内には小山の様な盛り土があって、子供たちのあそび場になっていました。
 昭和十八年七月、私が盲腸炎から腹膜炎になり、大熊病院に入院したとき、看病に来てくれていた母がよく咳き込むようになり、診察の結果喉頭ガンと判り、市大病院に入院しましたが帰らぬ人となりました。以後は父と私と弟の三人で暮らしていました。
 昭和二十年三月十三日午後十一時過ぎ、警戒警報になって大正区の方が燃えて空が赤く染まりました。空襲警報が発令されて間もなく、焼夷弾が雨のように降ってきました。隣の洗い張り屋のお父さんが防空壕へ入れと云ったので、娘さんが家から出たところに焼夷弾の直撃を受けました。「娘がやられた」というお父さんの悲痛な叫び声は、いまでも耳に残っています。その声をききながら、私と父は「火たたき」で懸命に火を消していましたが、弟は早く逃げようと云っていました。光福寺の本堂がものすごい勢いで燃えはじめ、これはだめだと、父は警防団の鉄かぶと姿で自転車を押して、私と弟は防空頭巾の上に布団をかぶって国道を住吉の方へ逃げました。途中人はあまり見かけませんでしたが、ただ道にきれいな着物が散乱しているのが不思議でした。道路のあちこちで焼夷弾が燃えていました。逃げる途中で夜が明けて来たので、家へ引き返すことにしました。帰ってみると家は焼けてなく、里庭にあった大きな楠も燃えつきていました。やがて焼け跡に人々が帰ってきましたが、なすすべもなく、しばらくはみんなぽうぜんと立ちすくんでいました。
 この空襲で、国道から西側の玉出の中心部分(旧勝間村)は全焼しました。

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