◎「尼崎の「広済寺」に近松門左衛門の墓
今日の二人は東海道・山陽本線尼崎駅で下車している。
「近江[ママ、松だろう、以下訂正]公園南側に広済寺があり、境内に近松門左衛門の墓がある。近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》は音曲の名人竹本義太夫《たけもとぎだゆう》と協力して、人形浄瑠璃を発展させた。京都や大坂に住んだが、広済寺との関係が深く、近松と妻の墓がこの寺にあるのは、当時芸能人や商人に広まっていた妙見信仰と関係が深い。広済寺隣の久々知左男神社は、当時久々知妙見とよばれ、大阪の能勢妙見と並ぶ霊場としておおいに栄え、広済寺はその神宮寺であつた。広済寺の開山講にも近松の名が見られ、しばし立ち寄って執筆にあたったともいわれる。尼崎市は近松門左衛門を市を代表する文化人として顕彰し、多くの文化行事を行っている。ー九七五(昭和五十)、広済寺の隣にゆかりの品々を展示する近松記念館が開館し、周辺も近松公園として整備されている。また市内の園田学園女子大学には近松研究所がある」とガイドブックは紹介している。
一方、大阪市中央区のマンションとガソリンスタンドの狭い敷地の奥に、大坂の文化の誇りである近松門左衛門の墓一つだけぽつんとあるのがいかにも不釣り合いだ。
近松門左衛門はもとは武家の出であった。本名を杉森左衛信盛《すぎもりのぶもり》といい、祖父は豊臣家に仕え父は松平忠昌に仕えたが、のち牢人として京都に移り住んだ。近松は承応二年(一六五三)に生まれ、長じて、公家の一条恵観へ仕えた。また母方は、松平忠昌の大医の娘でこの母方の教養を受けることがあった。
彼が二十歳のとき、主君恵観の死に会ってから武士という身分を捨てた。その後、近江の近松寺に遊び、近松の名はそこからとった。
「彼が公然とかぶき作者として名を記したのが、三十三歳のとき、以後二十年間、ほぼ三十余篇を書いたが、その多くは名優坂田藤十郎のためなのね」
「人形浄瑠璃《にんぎょうじょうるり》における近松の名は貞享二年(一六八五)大坂道頓堀に竹本座を起こした竹本義太夫《たけもとぎだゆう》のための『出世景清《しゅっせかげきよ》』を書いた時をもつて世にあらわれる。さらに、元禄十六年(一七〇三)にはじめて浄瑠璃界世話物という分野を確立したのが『曽根崎心中』なんだ」「近松の作品と確定できる浄瑠璃作品は、時代物七十編、世話物二十四篇そのほとんどが初代と二代の義太夫のためにあたえたものなのね」
「近松が出て『昔の浄瑠璃は今の際分同然いて、花も実もなきものなりしを、某出でて義太夫へのうつりて作文さしより、文句に心を用いる事昔にかわりて一段高く』と自負しているが、たしかに近松に至って浄瑠璃は『活きて働く』こと、『文句は情をもととする』、ところに変わった」「近松はまた『芸というものは実と虚との皮膜の間にあるもの也』と『虚実皮膜論《きょじつひに[ママ]くろん》』に残しているね」「当時の人形芝居はまだ一人遣いであって、今日の文楽のような三人遣いではなく、人形を見るというよりは浄瑠璃を聴くものとして迎えられた」「お兄さんはどうなの」「ディサービスから毎日日報が届くので状況がよくわかる」「行き届いているのね」「子供の保育所時代を思い出すよ」「何年前」「…」「またね」
編者注】近松門左衛門の墓所は、複数説あり、決着を見ていない。それだけ、彼の作品は、人々から親しまれ、その死は、人々から悔やまれらたのであろう。
“がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第22回・第23回” への1件の返信