今昔西成百景(027)特別編「西成の空襲」④

◎治安維持法下を語る
      F.H.さん寄稿

 私の夫F.Y.は、十四オで水平社の活動をはじめ、十六オのとき四・一六事件で逮捕されました。逮捕者の中で一番若かったと思います。
 私は、一九二一(大正10) 年九月四日、浪速区栄町に生まれました。かっての西浜、渡辺村で、逃れてきた大塩平八郎を守ったことを誇りとして語り継いできた村です
 父は靴職人で、半月勘定。一日と十六日に賃金をもらい、給料払いで生活していました。小学校に通ったのは一ヶ月だけです。米を買いに行ったとき「金もって買いに来い」とイヤミを言われ、自分で働きに出ることにしたのです。近所の共同工場で、牛の爪を油で圧縮したものを型抜きしてボタンを作るのがはじめての仕事でした。一日十銭ぐらいもらえました。
 家は八十五軒長屋で、向かいに水平社の事務所があり、三才頃から荊冠旗につかまってデモによくついて行きました。ビラまきを手伝うと、一銭か、二銭くれるのがうれしかったです。
 学校には殆ど行かなかったが、走るのが早く、水泳が得意なので、大会なんかの時は呼び出されました。四年生の時、高師浜から五キロの遠泳があり、十人が泳ぎましたが成功したのは私はじめ四人でした。
 修学旅行には、先生が金を出し合って旅費と、小遣い五円くれてつれていってくれました。当時の五円は大金です。家族や近所への土産も買いましたが、たくさん残して帰り、家のおかずを買うのに使いました。
 十三オのとき母が家出をし、私が十人の所帯を切り盛りしました。友達が化粧をしていても、自分はせず、夜中十二時まで兄の仕事を手伝い、兄が寝てからミシンの稽古をしました。三時近く、風呂屋のおじさんがもう湯落とすでと呼びに来てくれて風呂へ入り、ー時間くらい寝て起き出して朝の支度をしました。そんななかでもほがらかで、みなの世話を良くしました。十六の時には三人の兄に嫁持たしました。古着屋で紋付はかま借りて来たり、三々九度の杯もするなど、世話焼きました。貧乏が強くしてくれました。貧乏人のなかで生まれたことを誇りに思っています。
 嫁に来てくれとYの母親から望まれました。「Yちゃん又ブタ箱やで」と近所でしよっちゆう噂になり、アカになんかあかん、何のとりえもない男やと、 まわりの反対もありました。お母さんはええ人で、近くでおかず屋をしており、やさしくしてくれました。こんなお母さんがほしいと思ったのです。ー九三九年十月十六日に結婚しましたが、Yと結婚したというより、お姑さんのところへ嫁入りしたんです。しかし、嫁入りしてからニヶ月月後に姑さんは子宮ガンでなくなりました。
 水平社の活動家だったYは、治安維持法だけでなく、いろんな名目でしよっちゅう堺刑務所に入れられました。戦争が激しくなった時期には「物資統制違反」で逮捕されたこともあります。
 一九四五年三月八日にYに召集令状が来ました。十二日に最後の面会に行きましたが、憲兵が十人くらいついてまわり、話もできないありさまで、トイレにいっしよに入って声をひそめ手ぶりで話しました。
 三月十四日には大阪大空襲があり、親兄弟九人焼け死にました。私は子供を背負って木津市場に逃げ込みました。歩いていると後ろから「子供が燃えている」と声をかけてくれる人があり、あわてておろして火を消しました。
 堺市の親戚を頼ろうと向かっていたときです。阪堺線の我孫子駅の近くでした。連れになっていた三人の親子が、目の前で米艦載機の機銃掃射撃ち殺されました。子どもがむずかり、一歩おくれたことで命拾いしました。本当に生き地獄でした。戦争では親近者を十一人亡くしています。兄の一人は沖縄の万座毛のガマで焼き殺されています。兄の遺骨をもらいに法務局へ行ったとき、兄を帰してくれと大声でわめき、ブタ箱へ押し込められました。御堂筋でも戦争反対の街頭演説をして、ブタ箱へ入れられました。
 戦争反対の気持ちは教えられたものではありません。
 結婚したときから特高につきまとわれました。太平洋戦争がはじまってから、ゆっくりご飯を食べたことはありません。二人の特高がいつも、ご飯食べる横についているのです。風呂屋までついて来ました。焼け出されて避難した小学校へも来ました。何でこんな目にあわされるんやと何度思ったことか。差別された口惜しさも、特高につけまわされた口惜しさも一緒です。
 夫Yは一九九一年十二月二十一日に死去しました。彼から多くのことを教えられましたが、私は生涯それを守り、今では息子も孫も日本共産党員として活動しています。それが私の最大の誇りです。

編者注】写真は、「御津八幡宮付近から道頓堀方面」(Wikipedia より)

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