◎戦いのつめあと
K.J.さん寄稿
太平洋戦争が始まったのは、昭和十六年十二月、私が十オのときでした。
子どもなのでよくはわかりませんでしたが、 戦いが始まって間もないころは、威勢の良い勝ち戦のニュースばかりで、大人にまじって、自分も強くなったようで、うれしく思っていました。
そのうちに、 だんだん日常生活が不自由になって、食べ物も衣類もみんな配給制になって、何でも行列しなければ、買えなくなりました。
お米は一人一日、四・五デシリットルぐらい。ご飯の量を増やすため、 お米の中に大根やさつま芋、大豆をいれて炊きました。白いご飯をおなかいっぱいに食ベるということは、夢にもみられないことになりました。それにお魚も、野菜も配給で、とても栄養を満たす量はなく、みんな大変スリムな体をしていました。
食べ物ばかりではなく、家庭内の金属類も、鍋や釜だけをのこして、みんな兵器に変えるため供出しました。
もちろん、繊維製品も例外ではなく、衣料切符というものが発行されて、一年に一人何点と決められ、その範囲内で計画的に買い物をしました。タオルを買えば靴下が買えない。ズボンを買えば、シャツが買えない。だから、母親は、暗い電灯の下でいつも家族の衣類をつくろっていました。
昼は配給物資の行列に並んだり、乏しい材料で、少しでも楽しい食卓にしようと、それはそれは、大変な苦労をしていました。
そんな不自由にも必死に堪えて、「欲しがりません勝までは」「ぜいたくは敵だ」の合言葉をかみしめつつ、日本の勝利を信じて、ただただ一生懸命に奉公していました。
学生でも、勉強はできず、毎日軍需エ場で、勤労奉仕をしていました。
夜は、灯火管制といって、空襲をさけるため、外にあかりが漏れないように、電灯を黒い布でかこい、窓も全部黒いカカーテンで覆い、 家の中は薄暗く、外は真っ黒でした。今のようにテレビはなく、ラジオだけを頼りに、每夜じっと息をひそめて朝を待ちました。それでも空襲もなく朝まで寝られるのは幸せでした。
日本本土へも、敵の編隊が飛んできて軍需施設や民家に爆弾を落とし、焼火弾を雨のように降らせ、日本のあちこちで毎日のように損害がありました,大阪に空襲警報がでると、その都度防空壕へ避難しました。
そのころみんなの服装は、女性はズボンを太くしたようなモンペというものをはき、細長い座布団を二つ折りにしたような、防空頭巾をかぶり、男は学生服に似た型の黄土色の国民服を着て、脚にゲ—トルを巻き、戦闘帽をかぶり、男女とも、肩から鞄をかけ、胸には、自分の住所と名前・血液型を記入した白い布を縫いつけていました。いつどこで負傷するかもわからない毎日でした。
男は四十二・三才から十八オくらいまでの人は、全部戦線に送られ、毎日どこかで、出征兵士を送る「パンザイ、バンザイ」の行列がありましたし、町内の、あちこちには名誉の戦死をとげられた英霊をむかえる家が増えてきました。したがって、 町は、中高年の男子と、女性と子どもばかりになってしまいました。
女の人は苦しい家事のほかに男のしていた仕事もしなければならず、銃後の守りといって、 防空訓練や、本土決戦に備えて「えい、や—」と竹槍の訓練もあり各家庭ことに防空壕を掘るよう命ぜられ、家の中と空き地に壕をほり、 空襲警報が発令されると、みんな大急ぎで、 その中へ逃げ込みました。
その時間が長くなることを考えて、 ご飯やお茶、貴重品を持ち込み、じめじめしてかび臭い壕の中で小さくなって、肩を寄せ合い、息をひそめ、持ち込んだ鉱石ラジオのニュースに耳をそばだてていました。
そのころは、戦争の状態がますます悪くなり、都会は極めて危険でした。だから老人や子どもは、田舎へ疎開するように命令され、疎開する田舎のない子どもは、集団疎開をして、親と離れ、空腹で淋しい生活を強いられていました。
昭和二十年、私は十四才になっていました。学徒動員で、軍需品を作る毎日でした。
その日、三月十四日は、午前零時ごろ大阪に空襲警報が発令され、それはいつになく大がかりなものでした。急いで身支度をして、家族五人が自宅(現在橘三丁目)工場内の防空壕に避難しました。空襲はいよいよ激しく、午前二時ごろ、とうとう我が家に焼夷弾が落ちました.しかもそのうち何発かが家族の避難している防空壕を直撃したのです,壕の中はたちまち灼熱地獄となりました。
壕内の寒さに耐えるため、 冬服を着て、綿の入った防空頭巾をかぶり、マスク・手袋をつけて避難していましたが、 全身火だるまになり、必死で服や頭巾の火をはらいました。しかし、焼页弾の火はねっとりとへばりつき、なかなか消えません。
厚い服や、頭巾の部分は、どうにか無事でしたがマスクや手袋はあわてて脱ぎ捨てたものの、薄い布地を通して、顔と両手は既に重いやけどをおっていました。防空壕に居た一家全員が同じようなやけどをおいました。特に母は自分も火だるまになりながら、先に私の火を消そうとしたために、一番重いやけどになってしまいました。結局、父と母と自分は顔と両手に重度のやけどを、兄は耳、姉は左手にそれぞれやけどをおいました。
もちろん、家も工場も、ほとんど焼け落ちました 夜明けになって、外へ出てみると、 近くの家々も全焼または、半焼で、まだ煙がたちのぼっていました。焦げくさい臭いが一面に立ちこめ、自分たち同様に負傷した人々が、地域の赤十字救援隊へむかって歩いていました。
自分も救援隊て応急の処置を受けて.すぐに病院数箇所をまわりましたが、どこの病院も満員で、入院させてもらえませんでした。
しかたなく、みんな重傷の身で、岡山県にいた親戚の女医をたよって必死の思いで岡山までたどりつきました。そこでは大変親切に看護を受け、めいめいが、ある程度体力と気力を回復するまで、治療と援助を受けました。自分は、一年半お世話になって、大阪に帰ってきました。
二十年八月、日本が戦争に敗れて戦いは終わりました。大変悲しかった反面、もう空襲もないし、防空壕に入ることもない、夜も電灯を明々とつけられる、そんな安心感とうれしさもありました。
二十一年二月には父が急死しました。戦争までは父が鉄工所を経営し、母が助産婦をしていましたが、母はやけどで両手の機能を全く失いましたので免状があるのに、もう助産婦の仕事をすることもできなくなっていました。父の死で、我が家には収入の道が全くなくなってしまったわけです。
私は、もう自分が学校をやめて、働くしかないと決心しました。あちこち、五、六社も面接に行ったでしょうか、しかし、どこに行っても赤くひきつ ったケロイドの顔と、みにくく曲がって不自由な両手を見ると、採用してくれませんでした。
思いあまった私は、西成区役所へお金を借りに行きました。当時、そんな制度があったのです。しかし、まだ一五歳の私に貸してくれるはずもありません。生きていくために、なんとしてもお金を作らなくてはいけない。私はあせり、追い詰められていました。道路工夫でやっと採用され、一生懸命頑張りました。でも、この仕事でも、指の関節が不自由なこともあり、もたもたしていて、口ぎたなくののしられることもたびたびです。また、通勤の途中でも、顔のケロイドが人目につき、「猿がきた、猿がきた!」とばかにされたり、冷たい目で見られたり、悔しいことばかりの毎日でした。つい、その苦しさを母に訴えた時、母は「腕を磨いて、人を見返しなさい」と励ましてくれました。母にこう励まされてからは、ののしりも聞かず、冷たい目も気にかけないで、ただひたすらに働きました。
それにしても、自分の青春は、焼夷弾を落とされた日を境にして、真っ黒に塗り潰されてしまいました“必死に働く “目標も 、自分の手のなくなってしまった自由を取り戻すことでした。
昭和二十四年、ようやく手術をうけるだけのお金がたまりました。阪大で何年もかけて、四回の手術を受けました。その結果、右手の機能は、完全に回復しました。しかし、左手のほうは、親指、薬指、小指の三本が伸びないままとなってしまいました。
顔のケロイドもすこしはましになりましたが、口は三分の一しか開かなくなってしまいました。
不自由ながら、指を動かせるようになって、戦災で焼け落ちた父の工場跡に、卜タン板で囲んだ工場を復旧しました。使えそうな機械を修理して、ぼつぼつ仕事を始めました。父の時代のお得意様が、同情から、 多少の仕事をまわしてくれましたが、生活はまだまだ苦しく、新しい仕事を求めようと、あちこちの会社を回りました。しかし、ケロイドにひきつる顔と、不自由な手、まだ年若い自分を見ては、だれも仕事をくれません。それでもこりずに何度も何度も訪問を繰り返し、誠意をもって頼みました。そのうち、ようやく人柄をわかってくれたのか、少しずつ仕事がくるようになりました。仕事をさせてもらえば、技量がわかってもらえ、次の仕事もまわしてもらえました。そうして、だんだんとお得意様をふやして、現在にいたっています。
私は、戦場へは一度も行っていません。それでも、この戦災のために、どんなに苦労をし、血の出るような思いに苦しめられてきたかわかりません。
今は物資があふれ、 お金持ち日本といわれ、平和に慣れて、人々の行為や考え方に、時に「これでいいのかな」と思うこともあります。
勉強したくてもできない。おなかがすいても食べ物がない。服がやぶれてもつくろう布さえない。夜は灯もつけられない。レジャ—など思いもよらない。すべてに耐えても命の保証さえない。夫や父親をなくした不幸な家庭、戦争で病気や障害をおった人々 家を焼かれ道端で寝る人々。家族をなくした戦災孤児。こんな生活や、人間たちの姿が私には忘れられません。今日の平和は、この犠牲の上にあることを忘れないでくたさい。
これからは国際化の時代、世界から笑われない、力強くて、賢い日本を築くのは、君たちの仕事です。どうか戦争を忘れずに、平和のありがたさをかみしめて暮らしてください。
“今昔西成百景(026)特別編「西成の空襲」③” への1件の返信