◎廬山寺は「紫式部邸阯」にある
廬山寺の沿革にはこう記されている。
「廬山寺は京都御所に隣接しており、それは鴨川の西側の堤防に接しており、明治維新までは、宮中の仏事を司る寺院四ヶ寺の一つであった。明治五年九月、太政官布告をもって総本山延暦寺に付属する。昭和二十三年園浄寺として元の四宗兼学の道場となり、今日に至る」
元々この地は、紫式部の曾祖父の中納言藤原兼輔から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅である。紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた『古い家』で一年の大部分を過ごしていたといわれる。
この邸宅で藤原宣孝との結婚生活(二年で死別)を送り、一人娘の賢子を育て、日本文学史上の傑作といわれる『源氏物語』を書き上げたのである。
地下鉄今出川駅を上がれば、同志社女子大の前に出る。若い学生たちが立ち止まったりしている中を、八十歳の次郎と友子がいそいそと紫式部邸址に向かう。何となく華やいだ気分になってくるのは健康的に良いことではないか。
「紫式部はこんな御所に隣接した、京都のど真ん中で暮らしていたとは知らなかった。源氏物語は石山寺で書いていたのではないの」と、次郎。
「あれは伝説であり、もしあったとしても一時的なものでしょう」と、友子も興味ありげだ。
お寺の中にも紫式部色は強く、庭も「源氏庭」と名付けられている。
友子は次郎に近付いて小声で「紫式部は藤原姓であり、夫亡き後宮仕えをすすめ、その紫式部の文学生活を物心両面にわたり援助をしたのも、時の最高権力者藤原氏だったのよね」と話す。
「当時紙なども高価なもので強力なスポンサーなしでは本は出せない」と次郎は答える。・
友子は重ねて「ではなぜ本の題名を『藤原氏物語』にしなかったのだろう。藤原氏のライバル源氏の宣伝をなぜしてやるの」と疑問を投げかける。
「そこが歴史のおもしろさなんだ」と次郎は友子に顏を寄せて語る。
「『源氏』とは、天皇の次男ニ二男で天皇を継げなくて臣下になった場合に付けられる名前だが、事情が変わってその後天皇になるかもしれない立場なのだ」
次郎はつづける。
「一方、藤原氏はいくら権力を独占しても、代々娘を天皇に嫁がせて天皇の母にはなれても、天皇にはなれない立場。そこで源氏をことあるごとにイメージダウンさせておかなければならない」
「それで?」と友子も乗り出す。
「友ちゃん、源氏物語の主人公・光源氏をどう思う?」
「おんなたらし。女性を次々に悲惨な目に遭わせていく。しかも、政治家なのに庶民の暮らしなどには全くの無関心」と友子。
「こんな国民にとっては百害あって一利なしの家系が源氏なんですよ、と『源氏物語』は藤原氏の思惑を十二分に伝えてくれている」
「紫式部は利用されたのね」と、友子は少し淋しそう。
次郎はそんな友子を見て、小さく首を振った。
「いや、大変な页斤の中で紫式部は鴨川の流れを見つめながら、自分しか書けないものを後世に残したのではないか」
二人が紫式部邸址を後にして歩いていると、次郎は思いついたように言った。
「今出川駅で認知症の兄の好物、鯖ずしでも買って帰るわ」
友子はそれを聞き「私もそうしょう」と頷いた。
「またね」と二人、鯖ずしを手に持って別々に歩き出した。
・大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 未収載
“がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 七” への1件の返信