◎十五、江戸の世界に誘う草津宿本陣
今回の場所は次郎が今、認知症の兄の介護で住み着いている草津にある「草津宿本陣」。
友子に「歩いてきたの?」とひやかされた次郎は「いや、草津線を一駅だけ乗ってきた」と答えた。
さっそく友子を我草津駅から歩いて十分の本陣へ案内した。
説明書にはこう記されている。
「江戸時代街道沿いに、大名・公家・幕府役人などの宿泊旅館である本陣を中心にさまざまな施設が集まっていた。草津宿も東海道と中山道が合流する交通の要所。本陣ニ軒・脇本陣ニ軒・旅籠七十軒余りを構え、多くの旅人で賑わっていた。本陣屋敷は建坪四百六十八坪を有し、桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなる。表門をくぐると左手には番所が置かれ、中央に式台を持った玄関、その先には長い畳廊下が延びている。そして畳廊下の両側に従者、最も奥に主客の休泊する部屋及び主客専用の湯殿や上段雪隠を配している。屋敷裏手には、厩、土蔵、避難用門があり、屋敷の周囲にめぐらされた高塀や堀などが広大な敷地を護っている」
二人は案内書の示すようし時間をかけて見て回った。本当に江戸の世界に入っていくような気がして、次郎はおもしろさを感じていた。
「こんなふうにほぼ昔のままで残っているのは全国でもあまり例がない。江戸時代の参勤交代には本陣は無くてはならないものだった」
友子は「参勤交代って正確にはどういうことなの?」と次郎に聞いた。
「江戸時代の大名の数は二百七十位。関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えて大名になった、五万石以下の譜代大名が多かったけど、大・中の大名もかなりいた。それらの大名統制のために、一定の期間諸大名を江戸に参勤させた制度のことだ」
次郎は続ける。
「一六三五年(寛永十二年)武家諸法度の改正で制度化された。多くは在府・在国一年交替が原則。同時に大名は妻子を人質とすることになり、道中の費用や江戸屋敷の維持などの膨大な出費に悩まされた。幕府にとっては大名統制策として有効であったんだ。一方、経済機構の整備、文化の全国交流、江戸の繁栄など諸方面に大きな影響を与えた。一八六二年(文久二年)幕政改革の一つとして大大名は三年に一年、他は三年に一度百日在府と改正したけど、このことによって幕府の大名統制は緩んだんだ」
友子は次郎に疑問を投げかけた。
「ニニ七年間もやっていたのはすごいね。大名行列に何か規制はなかったの?」
「参勤交代で大名が江戸と国もとを往復する基準は、武家諸法度で百万石以下二十万石以上は二十騎以下と規定した。しかし、実際にははるかに大規模で、多い場合は数千名、少なくても百名以上。諸藩は威を張り見栄をかざつたんだよ」
友子は続けて「幕府は大名が浪費して潰れるのを待っているのね。それにもう幕末近しではないの?」と聞いた。
「この年だけでも坂下門外の変、寺田屋騒動、生麦事件:.大政奉還、徳川幕府崩壊まであと五年だからね」
友子は頷きながら本陣の柱にそっと手を添えた。
二人は草津宿本陣から少し離れた商店街を歩いていた。
今日の帰り道も友昨は次郎の兄を気にかけた。
「その後お兄さんは?」
次郎は思い出したように話し始める。
「以前は兄もこの商店街に自転車で来ていたらしいけど。最近はスーパーで目覚まし時計を五台も買ってきたよ」
友子はびっくりした表情で「安かったから配るつもりかしら」と眩いた。
次郎は微笑みながら友子に「またね」と挨拶し、友子も手を上げてそれに答えた。
“がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十五” への1件の返信