今昔木津川物語(013)

西成・住之江歴史の海路シリーズ(三)

◎大和川

 大和川は巨大な運河《うんが》である。住吉区と住之江区の南を東西に流れ、大阪湾に注ぎ込む大和川は、元禄《げんろく》十七年(一七〇五)に旧大和川を氾濫《はんらん》から守るために、八カ月を費《つい》やして人工的につくりあげられた川である。
 大和川は水源を奈良県|笠置《かさぎ》山地に発し、大和盆地の水を集めて西流、生駒山地を横切って大阪府に入り柏原市で石川と合流、ここから旧大和川は西北に流れ久宝寺《きゅうほうじ》川と玉串《たまぐし》川に分流し、玉串川はさらに菱江《ひしえ》川・吉田川に分かれ、吉田川は北流して深野、新開の二大池に通じ、さらに西に転じて久宝寺川とめぐりあい、大阪城の東で平野川の水を合わせて、淀川に流入していた。

水害で人々を苦しめた

 このように水系が複雑であったうえ、この河内の地域一帯はもともと土地が低く、流路《りゅうろ》についても屈折《くっせつ》が多く、水勢《すいせい》も緩慢《かんまん》なため土砂が堆積《たいせき》してだんだん河底が高くなり、これがために河内一帯に水害がしばしば起こって人々を苦しめた。
 延暦《えんりゃく》七年(七八八)すでに当時摂津《せっつ》職太夫《しきのかみ》であった和気清磨《わけのきよまろ》は、いまの天王寺の河堀口《こぼれぐち》から茶臼山河底池にかけて川を掘り、大和川の水を直接西に切り落とそうとしたが、工事は成功をみなかった。いま河堀口とか堀越とか地名が残っているのはその名残である。

中甚兵衛らの熱意が実をむすぶ

 江戸時代に入っても水害は頻繁《ひんぱん》に起こり、元和《げんわ》から元禄《げんろく》に至る六十余年間に十数回に及ぶ災害が数えられる。そこで今米村(元河内市,現東大阪市)の川中九兵衛は芝村(元枚岡市・現東大阪市)の乙川三郎兵衛と深く地形を研究して、柏原より西に流し直ちに海に入るよう、大和川付け替えの急務を唱《とな》えて幕府に訴えた。しかしこれには新川|開鑿《かいさく》の地形にあたる諸村が大いに反対し、訴願《そがん》合戦が繰り広げられた。九兵衛死没後はその子大兵衛・甚兵衛らが父の志をついで四十年間、東奔西走《とうほんせいそう》このことにあたった。大和川の付け替えに最終結論をあたえたのが二度の来阪をした河村|瑞賢《ずいけん》で、当時瑞賢は八十才、元禄十二年江戸に帰って付け替えを見ず他界《たかい》している。
 十三間堀川も元禄十一年(一六九八)河村端賢によって掘られており、当時も大型開発事業がめじろおしであったようだが、現代のような政《せい》・財《ざい》・官《かん》の癒着《ゆちゃく》による汚職《おしょく》の構造《こうぞう》はなかったのかどうか思いやられる。

なぞのスピード工事完成

 新大和川の工事は元禄十七年二月から開始され、長さ七千九百二十間(約十四・四キロ)幅百間(約百八十二メートル)の大規模なものであったが、延べ二百四十五万人を動員、七万両を投入して、付帯工事を含めて工期八カ月というスピードで同年十月完成。大和川の水はここに初めて住吉浦に通じた。普請奉行《ふしんぶぎょう》には目付大久保忠香や幕府への具申《ぐしん》で貢献《こうけん》のあった大阪代官万年長十郎、それに姫路・三田《さんだ》・明石・丹波《たんば》・岸和田・大和|高取《たかとり》の諸藩に助役が命じられた。
 二年前には赤穂浪士《あこうろうし》の討ち入りがあり、幕府は四十七士全員に切腹《せっぷく》という極刑《きょっけい》でのぞみ、「生類憐《せいるいあわれみ》の令」を出し「犬公方《いぬくぼう》」と呼ばれていた綱吉《つなよし》への不満に弾圧路線で反撃に出た。赤穂藩|隣接《りんせつ》の諸藩に助役を命じ、幕府への忠誠《ちゅうせい》を競《きそ》わせ、あわせて藩の財政を衰《おとろ》えさせたのではないか。
 工事は決して容易《ようい》なものではなく、和気清磨の失敗例もあり、特に固い岩盤《がんばん》がつづく我孫子《あびこ》台地の浅香《あさか》山|丘陵《きゅうりょう》の掘削《くっさく》が課題であったという。真っすぐ西へ掘らずに、斜めに西南へ掘り入り、斜めに西北へ掘り抜ける工法で掘削に成功した。今、杉本町から遠里小野町にかけて大きく湾曲《わんきょく》した川筋が、その工事の跡を示している。

大阪、堺両市の境界線となる

 かつては霞《あられ》松原まで浅香山丘陵の大松林が延びていたが、新川の築堤《ちくてい》土砂用に丘が切り崩《くず》され、この付近の地形は大幅に変わった。
 この付け替えによって分断された紀州街道に宝永元年(一七〇四)九月、長さ百間(約百八十二メ —トル)の大和橋がかけられた。
 一方、この川は大阪と堺の間を両断し、堺の北半分を社領としていた住吉大社と堺の関係を疎遠《そえん》にした。多くの町村が川の両岸に引き裂かれたが、その状態のまま明治になってこの川が大阪、堺両市の境界線と確定する。

編者注】
 大和川付け替えを契機として、木津川河口での新田開発や河内地方での木綿の生産など、日本の資本主義の成立にとって、「資本の本源的蓄積」の諸過程が進行していったことは、大変興味深く感じる。

南大阪歴史往来(002)

◎大和川の川違《たが》え(その二)

 川違え賛成派は河内・讃良・茨田・若江・渋川の農民たち。反対派は舟橋・太田・若林・瓜破・木本・淺香山・住道・植木等新川予定筋の農民と大和川、石川筋で舟運にたずさわる二百十一隻の船仲間とその問屋筋である。

万年代官が甚兵衛と現地へ

 後世「人情代官」と呼ばれた万年長十郎は、うずたかく積まれた請願書の中から幾通もの川違え関係を発見し、さっそく甚兵衛らを呼び出してくわしく聞いた。その後代官は甚兵衛と共に大和川筋を新川予定地も含めて再三視察した。反対派は田地が川底になる地域の総代庄屋西村市郎右衛門をせきたてて、奉行所への強い交渉を求めた。
 元禄十四年(一七〇一)二月、万年長十郎は甚兵衛を伴なって江戸表へ旅立った。これまでも再三、老中まで甚兵衛らの請願を取次ぎ、自分からも意見書を送り川違え促進を努めてきたが、今度は老中と直談判してでも決定させようという決心からだった。
 二月末江戸に着いたが、勅使下向で幕府は忙しくその上三月には赤穂の殿様の殿中での刃傷事件で、川違えどころではなくなっていた。

幕府川違え決定反対派敗北

 甚兵衛は江戸で万年長十郎からの連絡を待って二年目に入った。その間に大和川の堤防決壊、河内またもや大洪水の報が届いた。これでは年貢米も取れない。ここにきて幕府はやっと大和川の川違えを決定した。世間では赤穂浪士の吉良邸討入り、その後の四十七人の全員切腹などがさわがれていた。
 元禄十五年十一月、反対派の総代庄屋西村市郎右衛門は奉行所に呼ばれ、かねてより提出していた川違え反対の請願書が全て返された。

姫路藩に工事の金も人も

 元禄十六年十月二十八日、大和川川違え工事の人事が現地に正式に伝えられた。大目付大隅守忠香、小姓組伏見主水為信、大阪奉行所代官万年長十郎、以上三名を普請奉行に、姫路藩主本多中務大輔忠国を国役お手伝いとしてであった。
国役とは、江戸時代に幕府が諸大名の財政力を弱化させると共に忠誠心を示させ、あわよくば取りつぶしの口実を見付ける一種の謀略で、そのうち最も重要なものが河川の治水工事で、国役普請とよばれた。
 大和川川違え工事費の総額七万一千五百三両の内、幕府が出すのは三万七千五百三両で、残りの三万四千両を姫路藩が支出するのだが、実際はもっと多額の金が必要であった。幕府は工事完了後に、新田の権利金としてその何倍もの金が入ってくるし、その上今後の年貢米の増収を考えると、全く笑いが止まらない。しかも諸大名の力を弱めることができる。万年長十郎らもその利点を大老らに十分て説得したことであろう。

藩主急逝し藩の危機を救う

 一方、姫路藩にしてみればまさに寝耳に水で、何の関係もない他国の河川修理に藩命をかけさせられる。大変な貧乏くじを引いたものである。
 藩主忠国は国家老と共に先ず大阪の豪商で後に旧大和川跡地の新田で最大の地主になり大儲けする鴻池家に多額の借金をして工事を始めた。藩主政武は名も忠国と改めて、この重責を全うし藩の危機を救わんと陣頭指揮をとるも、姫路藩に割り当てられたところは浅香山の丘陵地で、堅い岩盤を打ち砕いて進む最大の難所、後世の人のいわく「浅香の千両曲がり」であったのだ。有効な道具や機械のないままに工事が遅れてくる。気疲れからか藩主忠国が病に倒れ三月下旬に急逝してしまうのである。二月十五日からエ事が始まったばかりであるのに、余程の無理難題を幕府から押しつけられていたのであろう。しかし、この藩主の突然の死によって、結果として姫路藩は救われたことになるわけで、自刃説も出たところである。
 幕府では改めて国役工事の大名を追加した。岸和田藩主岡部美濃守宣就・三田藩主九鬼長門守隆雄・明石藩主松平佐平衛直常・姫路藩主本多忠孝。計七十九丁(約九㌔)の再分担を藩主の死亡とはいえ幕府がよくやってくれたことだ。当時の権力者柳沢吉保に姫路藩から大金が運ばれたのではないかと、様々な噂がながれたという。
 新大和川は淺香山丘陵などの難所以外は掘らずに堤防を積み上げていくやり方をとっので、工事は工期八か月という早さで完了した。宝永元年(一七〇四)十月十三日式典後新大和川に通水した。

明暗分けた義民

 数年たったある旱魃の年のこと。今までの川が新大和川で切断され一滴の水も流れてこない地域が出てきた。総代庄屋西村市郎右衛門らは、毎日のように代官所や奉行所へ新大和川の堤防より水を引いてくれるように嘆願したが許してもらえなかった。ついに西村市郎衛門は近郷二十数ヵ所所の庄屋と相談の上、自分ー人が責任を負って、新大和川に水門を掘って水を引き入れた。稲田は正気をとりもどしたが、市郎右衛門は捕らえられ大坂城内で処刑され家族は離散した。
 万年長十郎は異例の抜擢を受け堤奉行に就任し、甚兵衛は川違えの功績により名字帯刀を許され、特別に新田づくりの権利を与えられ九十ニオで天寿を全うした。

付記】
 今日3月20日には、がもう健さんへのインタビューの準備にために、話をうかがいました。最近の「郷土史」では、官製の「市史・区史」を始めとして、本当の史実がどんどん削られゆく現状に憤りを感じること、例えば明治天皇が二度も「天下茶屋公園」に「行幸」に来た事実など、日露の戦いに「国威高揚」のためではなく、その頃近くで「隠居生活」を送っていた、自分の乳母に遇うためだったのではなど、興味深い話を聞かせていただきました。「郷土史」「地方史」は古臭い「逸話」に終わることなく、特に若い人が、明日への希望を培う寄《よ》す処《が》にしてほしいと熱っぽく語られました。最後に、まだまだ書きたいところが山程あるそうで、ご一緒に訪《たず》ねることを約して、プレインタビューを締めくくりました。インタビュー本番では、思ってもみないお話が飛び出すかもしれません。どうぞ、お楽しみにしてください。


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南大阪歴史往来(001)

◎大和川の川|違《たが》え(その一)


 大和川で小魚を釣っては空缶に入れて持ち帰り、母にコンロで焼いてもらったり、土手でトンボとりをしていて、気が付けば夕日が川口に沈みつつあり、あわてて友達と別れて帰宅したことなどがよくあった。
 川の中ノ島のようなところで砂遊びに夢中になっていると、いつのまにか潮が満ちてきて、ずぶぬれになって岸にはい上がってきたこともあった。
 子供の頃の大和川の思い出は、なぜか少しこっけいでそしてちよつぴり淋しかった。

青春の川は清流だった

 高校は大和川を南へ渡ってすぐの、南海電鉄高野線浅香山駅の前にあり、毎日車窓から川の流れと、砂地や堤を見ていた。
 体育祭の応援の練習にクラス全員で川原にやってきて授業に遅れておこられたり、親友と人生や文学について議論するなど、私にとってその頃の大和川は矢張り「青春の川」、であったような気がする。
 そして当時の大和川はけっこう清流であった。
 「浅香の千両曲り」という呼び方は後から知るのだが、大きな川にしてはかなりの急カーブで、私達の学校の北側に入りこんで来ていた。裸足になって川に入れば底はこまかい砂で心地よく、膝の辺りをさざ波がしげきし、太陽の光が川面に反射してまぶしかった。両岸には桜の樹が適当な間隔で立ち並び、四月には満開で祝ってくれた。土手には野の草花が咲き乱れ、しかし蓬(よもぎ)の葉を摘み取る人もいない。川の水はほとんど無臭である。堤防の分も入れると幅は約三百㍍もあり長さは見渡せるまで、見上げれば青空ははるか彼方。川の中に立てばこれらの風景がすべて一人で独占できた。
 時たま小鳥のさえずりと鉄橋を渡る電車のひびき。それも瞬間のもの。私はこんななんでもない大和川が大好きだった。
 その大和川がその後三十年たって、全国一汚れた川として一躍有名になっていようとは、「諸行無常」としか言いようのない、なんともやりきれない気持ちになる。

「大運河」をめぐる争い

そしてこの大和川にかって「元禄の川違(たが)え」という一大公共事業をめぐって五十年間に渉る住民間の激しい争いと、権力者達の策謀が逆巻く濁流があったことを、今となっては知る人も少ないのではないか。
 大和川は奈良県は初瀬川上流の笠置山地のつげ高原を源とし、奈良盆地の水を集めて大阪府と奈良県の間にそびえる、生駒山地と金剛山地の境目にある亀ノ瀬を通って、大阪平野に流れだし、南からの支流を合わせて上町台地を横切り、西に流れて大阪湾に達する一級河川である。

昔の大和川は「暴れ川」

 この川は今でこそ大阪府下では柏原市・藤井寺市・堺市・大阪市と流れているが、実は元禄十七年(一七〇五)までは、現在の八尾市・東大阪市・大東市を横切り、大阪城の北で淀川に合流していた。
 当時の大和川は流れがゆるやかで曲がりくねっているために、川底に砂がたまりやすく、洪水を繰り返す大変な天井川であり、暴れ川でもあった。
 そのために今から千二百年位前、地方長官であった和気清曆呂が大和川の水の一部を上町台地を割って海へ流す大工事を行なったが成功せず、「河掘口」「堀越」という地名だけを今に残している。

甚兵衛が幕府に対策を要求

 永年の懸案であった大和川の付け替えによる抜本的な治水対策を行なえと、幕府に対して要求して立ち上がった人物が、河内郡今米村(今の東大阪市今米)の庄屋をしていた甚兵衛である。
 旧大和川の川筋一帯は元々低湿地で水はけが悪く、大雨の降るたびに洪水の被害を受けていた。幕府は堤防を高くするだけで、ついには川底が周囲の田地より三㍍もたかくなってしまっていた。
 甚兵衛は二十オ前に父が亡くなってからその遣志を受け継ぎ、川違えの具体的な調査を行い、これによって多くの新田が生まれ、ひいては幕府も大増収になることなども提案し、江戸幕府や大阪町奉行所に五十年近く願い続けた。地元でも促進運動をした。
 当然のこととして、新川の予定地になる村や字や田地が潰されるところや、旧大和川で生活していた多くの船頭や漁師達は猛反対をした。
 川違え賛成派,反対派と親子二代にわたるたたかいに終止符を打ったのは、貞享四年(一六八七)に大阪町奉行所代官に万年長十郎が任命されたことによる。

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