今昔西成百景(033)

◎「ふたりつ子」とわが街天下茶屋

NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」が好評とのこと。大阪の下町、西成区天下茶屋を舞台に、双子の姉妹が実業家、将棋のプロ将士の道を目指す物語だが、西成区民としてはなじみの所がよく出てくるので、毎日の話題になり、話の進展についても興味しんしんである。
姉妹が通っている学校は岸里小学校ではないか。西天下茶屋駅前の西天銀座商店街がモデルではないか。通天閣が近くにあるというのなら、東天下茶屋ではないか。等々である。

テレビの画面から街を再発見

私は、早朝、豆腐製造の蒸気が立ちこめているなかを、南海汐見橋線の二両連結の始発盈車が踏み切りの向こうを通り、手前に新間配達の少年が自蔽車で走り、まんなかを犬を連れた人が歩いていく、まるで風景画のような画面が気にいっている。
西成民主診療所の前の、枕木で柵をした汐見橋線の沿道が、いまどきめずらしいものとして撮影されながら、その後すぐに金網に変えられてしまったのは、ちよっと淋しい。
姉妹の父である、野田豆腐店を営む光ーは、「まあええやないか」が口癖であるが、それがまるで天下茶屋の庶民のキ—ワ—ドのように思われたら、とんだ誤解だといわざるをえない。

「福祉施設の街」は困る

寛容であるということは下町の住民としては当然身についたものではあるが、財界・「解同」ベッタリの行政から、意図をもって、「すきやねん西成」「人情の街西成」として押しつけられたのでは、たまったものではない。最近、大阪市が西成区に大型の福祉施設をつぎつぎに持ち込み、地元住民から反発をうけているが、「福祉の街」がいつのまにか「福祉施設の街」にすりかえられている。住民は「調和のとれた街づくり」を望んでいるのだ。

消費税増税は商店街を直撃

西天下茶屋商店街は二百からの店舗のある、西成では指折りの商店街だが、今不況・スーパー・地上げのためにかなりの店がシャッタ—を下ろしている。こんな状況では「まあええやないか」と、納まっているわけにはいかない。先日この商店街で、日本共産党の消費税増税反対の宣伝隊が大いに歓迎を受けたが、老舗の店も確実に変わってきていることを感じた。

殿下茶屋が天下茶屋に

天下茶屋という名は「天正四年のこと、千利休に茶を伝えた茶匠武野紹鷗が閑居していた地で芽木小兵衛正立なる人が茶店を開いていたが、太閤秀吉が住吉大社への参拝の途中、千利休の勧めで麗水で知られるこの茶店に憩い賞美の余り、井戸に恵水の名と玄米三十俵を与えた。このことから世に、殿下茶屋=天下茶屋と呼ばれるようになった」(西成区史)とのことである。

秀吉の庶民性も出世するまで

秀吉は全て派手好きで、自己宣伝がうまかったといわれているが、同じ天正年間にスペインの商人ヒロンは、米二俵を納められなかった農民夫婦と子供二人が殺されるのを見た、と書いている。大阪城の築城に動員された人々のなかには、仕事がすんでも国元に帰れず、川原で細々と世を過ごす者も多かったという。
大阪市は豊臣秀吉ブ—ムに便乗して、現地に史跡公園を計画しているが、行政による一面的な秀吉の賛美はお断りしたい。

試練の道を行く二人

さて、「ふたりつ子」の野田ファミリーは今後どのような道を歩むのか。姉の麗子がボ—イフレンドに住所を聞かれ、「帝塚山」と答えてしまつたり、妹の香子が「京大生」の姉に対抗して、プロの将棋士を目指すあたり、また、麗子に自分の生き方を拒否され、酒に不安や寂しさをごまかしていく父光一、本当に、私たちのまわりに、いくらでもいそうな人物がえがかれていて、一層身近に感じる。
二、三日前にも、結婚して博多にいっている娘から電話がかかり、「妹の香子は若いときの自分にそつくりや」といわれ、思わずどきりとさせられた。

今昔西成百景(018)

◎天下茶屋

 「天正年間のこと、千利休に茶を伝えた茶匠武野紹鷗が閑居していた地で芽木小兵衛正立なる人が茶店を開いていたが、太閤秀吉が住吉大社への参拝の途中、千利休の勧めで麗水で知られるこの茶店に憩い賞美の余り、井戸に「恵水」の名と玄米三十俵を与えた。
 このことから世に『天下茶屋』と呼ばれるようになった。(浪華にしなり図解説より)」
 天下茶屋東一 丁目二〜三番地一円で現在進められている地上げは、その規模では市内最大級の一つである。一年数ヶ月前より始まった地上げに、住民約四十世帯が固く団結して今日まで斗いつづけている点は立派である。
 三月中旬から隣接の空アパ—卜や空家をつぶしだし、残がいをその場に高さ約四メ—トルの小山にして積み上げそのままにしてある。四〇〜五〇トンにもなるのではないか。古タタミやベニヤ板が表面をおおい、マッチ一本で大火事になることは必至である。住民への嫌がらせ以外のなにものでもない。
 去る四月十一日、地元住民の代表五人と共に西成消防署へ、業者への残がい撤去の行政指導を早急に行なうよう要請した。谷下市議が紹介議員として出席してくれたことは住民に大きな励ましとなった。
 天正年間、スペインの商人ヒロンは、米二俵を納められなかった農民夫婦と子供二人が殺されるのを見たとものの本にかいている。大阪城の築城に徴用された人の中には、仕事がすんでも国もとへ帰れなくなり、川原で細々と世を過ごす者も多かったという。
 米三十俵を与えて人気とりをして、「殿下茶屋」「天下茶屋」と喧伝させた秀吉の戦略。その裏にかくされた無数の哀話。
 それから約四百年たった今日、「冷戦は終わった。もう保守も革新もない。」「世界一治安のよい国、日本」とマスコミで意図的に流されているが、現に天下茶屋で地上げと大火の危険に不安な毎日をすごす市民がいる。「地上げ新山」を見上げて、このたたかいは必ず住民が勝利しなければならない、と考えた。
(ー九九四・四)

今昔木津川物語(002)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(二)

天下茶屋あと紹鴎じょうおうの森 (岸里東二-一〇・二-三)

 私が西成の郷土史に興味を持ち始めたきっかけは、太閤秀吉の殿下でんか茶屋が天下茶屋になったという 、至極しごくおめでたい話に疑問を感じ始めたことからである。
 秀吉は農民出身であるだけに、わずかな隠し田も摘発てきはつし、家・納屋なやの敷地にまで年貢ねんぐをかけたという。米二俵を納められなかった農民のうみん夫婦と子供二人を殺させたのを、当時の外国人宣教師せんきょうしが書き残している。
その秀吉が、景色が良い水がうまいというだけで、毎年三十俵からの米を、西成郡勝間かつま新家しんけの一茶屋に支給する約束をなぜしたのか。それではまるで好々爺こうこうやではないか。何かウラがあるぞ、というのが私の直感だった。

茶道中興ちゃどうちゅうこう武野たけの紹鴎

 この地に天文てんぶん年間(一五三二〜五五)から茶屋を出していた茶人武野紹鴎は、茶の眼目がんもくに「和敬静寂わけいせいじゃく」の理念りねんを説いた反面、雪舟せっしゅう一休いっきゅう筆墨ひつぼくはじめ高麗茶碗こうらいちゃわんなどの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休せんりきゅうなど茶道史さどうしの傑物がいた。
 武野紹鴎はそれだけではなく紀州街道(住吉街道)が、当時深い森でさまたげられ、勝間街道か熊野街道まで回り道をしなければならないというなかで、私財をなげうって森をきりひらくという偉業いぎょうをなしとげていた。そのため今日にいたるまで、紹鴎の勧請かんじょうした天満宮のことを天神の森天満宮とも紹鴎の森天満宮とも呼ぶのである。
 紹鴎はまた、道行く人々に無料で茶をもてなすなどして茶道の大衆化にもつとめ、世人はこれを紹鴎の施行茶せこうちゃ、日本一の茶屋とたたえた。これらのことからして、秀吉の殿下茶屋の以前から、紹鴎の茶屋はすでに天下茶屋と呼ばれていたと私は推理すいりするのだが、明治三十六年発行の大阪府が編者となった大阪府誌第五編にも「然して此の天下茶屋のしょうは、あるひは秀吉の堺政所まんどころへ往復の際立ち寄りてその風景を賞せしより起こるといひ、或るひは紹鴎の茶亭さていより出たといひ、その他或るひは其の以前よりありといひ詳かならず」とある。

非運ひうんの人武野宗瓦そうが

 武野家は紹鴎が五十四オでぼつしてからは数奇すうき運命うんめいをたどる。長男の武野宗瓦は茶道さどうの才能も父まさりといわれ気骨と品位ひんいにも恵まれた人だったが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五オのとき、織田信長おだのぶながに父の遺品いひん「紹鴎茄子なす」と「松島茶つぼ」の名器を取り上げられたうえに追放処分ついほうしょぶんとなり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家そうけを継いだものの、天正てんしょう十六年には父の弟子の手引きで秀吉に「備前びぜん水こぼし」「茄子ぼん」など父の秘蔵ひぞう物約七十点すべてを没収ぼっしゅうされ再び追放となる。宗瓦は不遇ふぐうのままその後病没びょうぼつするが、その場所もさだかでないという。
 一説には、宗瓦は直前にすべてを持って家康いえやすのもとに妻子さいしと共に身を寄せ北野大茶会きたのだいちゃかいに欠席し、秀吉に大恥おおはじをかかせたともある。
 紹鴎秘蔵の品といえば、当時は茶器ちゃきーつでしろ一つに匹敵ひってきするといわれた程のものであり、現在げんざいならいずれも国宝級こくほうきゅう逸品いっぴんであったろう。
 地元の尊敬そんけいを受けていた武野家を白昼強盗はくちゅうごうとうのようにして抹殺してしまった秀吉に、世間のきびしい批判の目が向けられたことは、当然のなりゆきだったと思われる。

秀吉の隠蔽工作いんぺいこうさく

 徳川とくがわ家康にえず厳重げんじゅうな警戒をはらいいながら、諸大名には褒美ほうびをおくりやっと天下人てんかびとになった秀吉にとっては、大坂おおさかでの悪評あくひょうのどんな一つでも、命取りになりかねないとの思いがあったのではないか。
 河内屋の芽木小兵衛めきしょうべいにたいして、井戸には「恵水けいすい」の名と毎年米三十俵を与えるとのおたっしが華々はなばなしくやられたのは、武野宗瓦追放劇の直後であったことからしても、殿下茶屋発祥はっしょう劇はその隠蔽工作とみるのが歴史の常識じょうしきではないだろうか。

紹鴎の名を残した小兵衛

 突然とつぜん太閤秀吉にほめちぎられた、芽木小兵衛の心中は複雑ふくざつであったろう。恩人武野家のことを思えばむねははりさけんばかりである。
 しかしそれは絶対におもてには出せない。しかしこのままでは、後世の人は何と思うだろう。自分の意志いしを残しておきたい……。
 南北朝なんぼくちょうの「忠臣ちゅうしん」楠木正成まさしげの子正行まさゆきの十代目、正長まさながの三男昌立まさたてとしての誇りにかけても。
 今、紹鴎の森天満宮の住吉街道側の鳥居とりいから入るとすぐ右手に、子供の背丈位せたけぐらい表面ひょうめんがぼろぼろになった石が一つ建っている。まるで路傍ろぼうの石のようなこれこそが、三代目芽木小兵衛昌立が万感ばんかんの思いをこめて、四代目小兵衛昌包まさほうに「紹鴎のもり」と深々と刻ませた歴史の証人しょうにんなのではないだろうか。石に手を置けば頭上ずじょう高くで、樹齢じゅれい六百年のくすのきが風でざわめいていた。

【注記】
 ルビ(ふりがな)の表記は、ruby タグを,太字部分は、b タグを、大きいフォントでは、font タグを用いています。
 本文や画像の二次使用はご遠慮ください。

【参考】
Wikipedia 武野紹鴎
Wikipedia 武野宗瓦

百歳体操 第1・第3月曜日で開催しています

天下茶屋・聖天下支部、天下茶屋東支部合同で百歳体操を定期的に開催しています。

開催場所:西成区聖天下1-10-26 デイサービスつれづれの里2階
開催日時:第1・第3月曜日10時~(30分ほどです)※1月4日はお休みします。参加費:無料

参加希望の方は組合員活動部までお申し込みください(感染対策上、初回のみお願いします)

06-6658-7400 (スマホなどでは、そのまま電話につながります。)

※百歳体操班会は医療福祉生協の組合員さんの要求に基づいて開催しております。当日生協加入のご案内をさしあげます。

※動画アップロードは参加者の確認のもとおこなっています。