照る日曇る日(012)

 この連載も、はや1年、実は、密かに狙っていることがある。元理事長のがもう健さんの郷土史エッセーは、府会議員時代の政策ビラから始まり、機関紙「みらい」での、「びっくり史跡巡り」まで、30年、200回以上続いていたが、「がもう健を超えろ!」との気概だけはある(笑)。草稿を、がもう健さんに見せたところ、「着眼点がよろしい」と、お褒めの言葉を頂いた。
 そこで、今回は意を強くし、「今昔堺物語」の続編を少々…

 千利休に比べて、堺の商人の家で生まれた戦国大名小西行長の足跡はあまり知られていない。社会的弱者の救済にも尽力したとされる痕跡は何も残っていない。屋敷跡の標識も、幹線道路沿いにひっそりと佇んでいるだけである(写真)。作家遠藤周作は「鉄の首枷(くびかせ)」で行長の評伝を書いた。遠藤も現在の堺に嫌悪感を隠さないが、わずかに北旅籠町の商家、旧堺港や南宗寺そばの環濠跡に面影が残っていると言う。
 行長は、彼の一族の言わば「打算的」な思惑で、キリスト教の洗礼を受けた。のちに、秀吉の配下に入り、瀬戸内海の島々や、九州肥後半国の領主となる。その間に、熱心なキリシタン大名の高山右近とも昵懇になり、自身の信仰もより確かなものになったようだ。秀吉のキリシタン追放令の際には、高山右近を小豆島にかくまったりもした。やがて、朝鮮侵略である文禄・慶長の役では、その最前線に立たされた。ひいき目にみれば、行長自身は「和戦両面」のスタンスであり、太閤には面従腹背であったが、「和平工作」も秀吉の醜悪な野望の前では潰えざるをえなかった。秀吉子飼いの武将、加藤清正とも、全く反りが合わなかったようだ。
 時は流れ、関ヶ原の戦い、行長は、家康に対抗して、石田三成に味方した。その動機は様々に推測されるが、徳川の世では、いずれ「鎖国」となり、彼の夢である異国との自由な交易、交流ができないと思ったのだろうか?何よりも心のうちにあった「首枷=おのれの野心」から解放を願ったが、それが叶うのは、彼の最期のときであったのだ。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2026年5月号搭載