今昔木津川物語(014)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(四)

◎住吉公園

 住吉大社の西のあたりは昔、住吉の浜とよばれ老松《おいまつ》の名勝地《めいしょうち》であったという。
 明治六年八月、太政官《だじょうかん》布告《ふこく》によって東京府の芝、上野、浅草、大阪府の浜寺、広島県の厳島《いつくしま》、鞆《とも》などが公園となったが、住吉もその時に住吉の浜の松林一帯十九万七千三百平方メートルが公園に指定された。日本で最初の公園の一つともいえる。
 住吉公園の付近は、明治の中頃までは人家も少なく「潮風《しおかぜ》に鳴る松林が大和川を越えて堺までつづいていた」と聞くと、私の記憶《きおく》は一度に敗戦《はいせん》直後の少年時代を甦《よみがえ》らせてくれる。
 当時は伝統《でんとう》ある住吉公園といえども、設備もすべてはぎ取られてなにもない、荒れ果《は》てた公園だった。記憶の中では、いつも西日《にしび》をうけた強い風に砂が舞っていた風景が浮かぶ。外地《がいち》から引き上げてきた家族が、ボロをまといさまよっていたり、兵隊服を着た男が、よく野宿《のじゅく》をしていた。

手製のグローブで草野球を

 私達小学生は主に東グランドで、 それぞれ母や姉に古い厚手《あつで》の布でつくってもらつた、グローブやミットを使つて、毎日のように野球をしていた。
 私が中学生になった頃から、東グランドでよく日本共産党の野外演説会がもたれるようになった。いつもニ・三千人集めて熱烈な演説をしていた。私もよく友達と共に、松の木によじのぼったりしてきいていた。
 一九五五年八月、第一回原水爆《げっbすいばく》禁止世界大会が広島で行われ、大阪からも代表団が関西汽船を借切り、大山郁夫《おおやまいくお》氏を団長として乗り込んだ。私も住吉区から代表として参加したが、二十ー才の生意気盛《ざか》りの青年が核戦争の恐ろしさと反戦運動の大切さを学んだかけがえのない機会《きかい》となった。

西成・住吉合同で平和集会を

 この大会の報告集会を、住吉公園束グランドで行うことになり、私も大会事務局に入り奮闘した。大会の実行委員長は住吉区の社会党の府会議員がなり、西成区からは日本共産党の四方棄《しかたすて》五郎氏や岩本|甚一《じんいち》氏、その外に浄土貞宗《じょうどしんしゅう》のお寺の若い住職《じゅうしょく》もおられるなど、幅広く結集されていた。余談《よだん》になるがそれから十数年後、四方氏が市会、私が府会とコンビをくんで以後二十数年間西成区で選挙を闘うとは、当時夢にも思わなかったことである。
 報告集会の第二部に人生幸郎《じんせいこうろ》・幸恵《さちえ》の漫才をおねがいしたところ「薄謝《はくしゃ》」でも快《こころよ》くうけてくれ、話の中に平和問題も即興《そっきょう》で入れたのには感心した。
 それから夏になるとこのグランドでよく映画会をやった。「青い山脈」「ビルマの竪琴《たてごと》」「戦争と平和」などは何回もやつた。夜遅く電気の消えた粉浜の商店街をゲタの音を響《ひび》かせて、仲間と映画の話で論争しながら帰ったものである。
 住吉公園の南側を流れている細井《ほそい》川が台風で氾濫《はんらん》して、公園が池のようになったこともあった。高灯籠の屋根が吹き飛ばされたと聞いて、見にいったが松の大木が倒されて道をふさいでいた。
 住吉公園はこの百二十六年の間に何度も大改造されて、現在の形に整備されたのだが、その間に西部を国道二十六号線で縦断《じゅうだん》され西運動場が廃止となったり、南海電鉄の敷設《ふせつ》のさいも東部を分断《ぶんだん》されるなどして、当初より公園面積が大幅に減退《げんたい》している。大公園にしては手狭《てぜま》な感じがするのはそのせいである。

藤掛道《ふじかけみち》に芭蕉《ばしょう》の升塚《ますづか》あり

 園内《えんない》中央部に「藤掛道と呼ばれる東西の遊歩道があり、十三間掘川や海を船でやってきた人たちが、灯籠のあるこの道を通つて大社《たいしゃ》にお参りした」と伝えられているが、今でもこの道は公園の中央部を東西に貫通《かんつう》している。しかし砂ぼこりのたちようもない、 立派な石畳になっていて少し親しみにくい。
 この道の南側に松尾《まつお》芭蕉の升塚《ますづか》が建っ
ているが、最近の公園の整備《せいび》でよく目に付くようになっている。
「升《ます》買《か》うて分別《ふんべつ》かわる月見かな 翁《おきな》」を三行に書き分けてあるが、左の行の上に〇を入れてあるのは献灯《けんとう》の意味らしい。元治元年《げんじがんねん》に建てるとあるから、公園ができる十年前ということになる。
 元禄《げんろく》七年九月芭蕉が最後の旅に出て、九日大阪につき住吉近くの酒堂亭《しゃどうてい》に入った。十三日に大社に詣《もう》でたが、折悪《おりあし》しく雨にぬれ気分が悪くなり、月見の句会《いかい》には出席できなかった。その後門弟に送った句がこの句だったという。芭蕉はその後寝込んで難波《なんば》の御堂《みどう》近くで亡くなった。十三日は「宝市《たからいち》」の神事があり、社頭《しゃとう》に升を売る風習《ふうしゅう》があった升の市である。