今昔西成百景(047)

◎汐見橋線「木津川駅」

 かって、南海・電車の玉出駅と岸ノ里駅の間が極めて短く、不思議に思ったものであったが、これは運転手泣かせでもあったらしく、ベテランでも嫌がっていたと聞いたことがあった。

元南海各駅建設で地元貢献

 「西成区史」では、玉出駅の配置は地元勝間村からの熱心な希望があり、明治三九年駅舎設置の際には、駅敷地八四〇坪が村から南海に寄付された、としている。
 また、大正二年に設置された岸ノ里駅汐見橋線「木津川駅」についても、同村北部の発展上必要であるとし、付近地主が六千余円を南海に寄付したと記している。
 玉出駅も岸ノ里駅も共に地元からの熱心な要望により設置したもので、両駅の間が狭いのはあくまでも地元の事情で、南海としての責任はないということなのか。

本来は南海の絶対必要な駅

 しかし、もしあの岸ノ里駅がなかったとして、それでも電車はスムーズに運行ができたかといえば、それは大いに疑問だったと言わざるをえない。
 何となれば、岸ノ里駅の北方には高野線が急カーブしながら、上町台地を龍のように昇降する複線の線路があり、その間に大きな踏み切りもあった。また、汐見橋線から南海本線に下りてくる貨車専用の引き込み線が、駅の西側に複線で加わる。客車にも特急・急行・準急・各停・住吉公園までの各停などがそれぞれのダイヤで目まぐるしく走るというこの地点は、南海電鉄の総合的な司令塔が絶対に必要だったはずである。
 そもそも、岸ノ里駅が出来た当時には、汐見橋線はすでに今日のような、立体交差が出来るように高架化されていたのかどうかも、疑問である。どう考えてもあの岸ノ里駅が、地元からの強い要望がなければ、不必要な駅であったとは思えない。我々乗客も、岸ノ里駅のホー厶で、急行や貨車の列を優先させるための長い時間待ちを每回やらされていたが、あれがホー厶もないすし詰め電車の中でやれない事ぐらいは、誰にでもわかることである、岸ノ里駅建設当時の地元住代の巨額な南海への寄付は:歴史的に見れは、南海に大きな貸しをつくったことになるのではないか。

郷土史を知れば当然の要求

 今の岸里玉出駅は、今度は極めてホー厶の長い駅として、事情を知らない乗客に不審がられているが、実は、元の玉出駅と岸ノ里駅に新駅の南北の改札口を設けたからそうなっているのであり、西成区の住民にとってはあまり違和感はない。郷土史を知っておればこその、当然の住民の要求であった。
 最近、「南海電気鉄道百年史」という南海電鉄発行の社史を読む機会があったが、大企業というものは会社にとって不利なことは、記録としては残さないらしい。社史も「勝者の歴史」なのかと改めて認識させられた。もちろん、玉出駅、岸ノ里駅設置に際しての地元の貢献など
は一切書かれていない。

南海百年史にない貨物輸送

 「南海電気鉄道百年史」を読んで抱いた疑問の一つは、 南海の貨物輸诺の歴史については、資料以外には全くふれていないという点である。南海電鉄の発足は、乗客と貨物の輸送の二本足だったはずである。特に高野線と汐見橋線は貨物の比重は多かった。
 真つ黒に塗った大きな貨車が二十台も三十台も連結されて、電気機関車に引かれガタゴトと踏み切りを越えていく様子は、なにか不気味でさえあった。しかも、下りがやっと終われば今度はそれ以上に長い上りの貨車が来る。「開かずの踏み切り」は、このようにして戦前から存在していたのである。

戦争協力の歴史を抹殺か

 南海電鉄の貨車も、戦時中は当然のこととして、あらゆる軍需物資を頻繁に輸送していたはずである。
 私たち子供が、踏み切りで無邪気に貨車の数を読んでいたその中に、補充兵として最後に召集されて行ったお父さんの兵隊達が、閉じこめられていなかったであろうか。現に旧国鉄ではそうしていた。敗戦の年には「スパイ防止」の名目でこっそりと出征させて、家族の「千人ぱり」さえ許さなかったという。南海が社史の中に「貨車」については書かなかった裏には、戦争協力の歴史が存在するからではないのかと思わずにはいられない
 「歴史は繰り返される」ことのないように沿線住民の日常的な平和運動が重要になるのではないか。

貨物輸送の五十年を見た駅

 先日、 汐見橋線の木津川駅を紡れた。ホ—厶に立って西側の木津川の方を見てみれば、 川は見えないが川風は感じる。駅前の広場に雑草も含めた草花が生い茂りあちこちに、高さ二缶もあるようなカンナの緑の葉の中に黄色や紅色の大きな花が満開となっているのが印象的だつた。
 かってこの地は、木津川の土手を掘り、貨物船専用のバース(船繫ぎ場)をつくり、高野線と南海本線を木津川を上ってくる大・小の貨物船と結びつける、貨物の拠点基地として大いに賑わった街であった。明治三三年汐見橋駅と同時に開業し、敗戦後まての約半世紀を、 軍需品を含めてあらゆる物資を流通させてきた歴史のある埸所である、 今もホ—厶から目をこらして見てみると、パースからの引っ込み線のレールと、手動のポイント切り替えのレバーが残っているのを発見した。今はバースも埋め立てられ、落合上の渡船埸への連絡駅のような、「西成区でー番ひとけの少ない静かな場所」になっているが、郷土の歴史をしみじみと感じさせるところでもある。

今昔西成百景(037)

◎汐見橋線

 NHKの朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」もいよいよ終盤に入っているが、話は二転三転していったいどこに落ち着くのやら、最後にどんなどんでん返しがあるのか、毎日目がはなせない状況である。
 「ふたりつ子」の舞台となっている「野田豆腐店」のある商店街の背後に、ときどき二両連結の電車が走るが、なんという名のロ—カル線かと、疑問に思っておられる視聴者も多いことだと推測される。
 この電車こそわが西成区を終点とし、隣の浪速区を始点とするも五駅中三駅は地元にあるという、十五分に一台づつ発車している歴史と伝統のある、南海汐見橋線なのである。

もとは汐見橋駅が高野線の始発駅

 かって真言密教の霊場、高野山に参拝するには徒歩に頼るしかなかった。そこで明治三十一年一月に高野鉄道が大小路(現堺東)から狭山間に鉄道を敷設、つづいて狭山—長野(現河内長野)間を延伸、そしてその二年後の明治三十八年八月に大小路—汐見橋間が開通し、汐見橋が高野線の始発駅となった。全線単線で重量三〇トンの小さな蒸気機関車をもって運行が始まった。

幾多の変遷の後念願の高野山へ

 今の高野山行きの電車は難波が始発駅だが、変更になったのは大正十四年。高野鉄道がその後「高野登山鉄道」となり、またその後「大阪高野鉄道」となり大正十一年九月に南海鉄道と合併して、南海高野線となった。
 トンネル二十五ケ所、急カーブ四十ケ所を超えた難工事であったが、昭和四年二月にやっと極楽橋まで開通、高野山頂までの路線はケ—ブルカ—が昭和五年六月になって完成、ついに汐見橋—高野山が全通した。

戦後さびれた汐見橋線

 戦前までは田園地帯を走る高野詣での路線でしかなかった高野線も、昭和三十年代以降は大きく変わり、いまや朝夕は通勤客でこみあい、休日ともなれば観光とレジャ—ににぎわう路線となつた。
 駅が開設された頃の汐見橋周辺は、大阪市内の交通の要衝であった。汐見橋駅のすぐ近くには国鉄(現JR)の終着駅・湊町(現JR難波)駅があり、また道頓堀の川筋をひかえ貨物の集散も多いところであった。
 汐見橋—岸の里間がいまのようにすっかりさびれてしまったのは、戦後の市電廃止・地下鉄の整備・貨物の営業活動廃止・沿線企業の移転・廃業などによる。

三十年前の雰囲気残るタイムトンネル

 先日久しぶりに汐見橋線に乗車してみた。沿線は民家や工場の裏手に当たるためか、その風景は昔とあまり変わっておらず、三十数年前に青年連動や労働連動のオルグとして毎日のように大正区や港区にこの電車で通い、よく終電車でかえっていた日々を思い出し感無量であった。
 汐見橋駅に降りたってめずらしいものを発見した。それは壁面いっぱいに描かれた、南海電車沿線名所-旧跡を紹介する大地図である。海水浴場がずらりと並んでいるのも、いまは無残に埋め立てられてしまったこれら白砂青松の地の無言の訴えと感じられた。

汐見橋線の今後の運命にどんでん返しはあるか

 「汐見橋線はやがて廃線になるのですか」とよく聞かれる。西成区民としては十数年前に、南海天王寺線が廃線になつた苦い経験があるから不安になるのだろう。しかしいま、汐見橋線の運命は西成区民の思惑をこえたところで論議され、計画が進められているのである。次に大阪市建設局理事仙石泰輔氏のある座談会での発言の一部を紹介しておく。
 「新しい鉄道計画がございます。運輸政策審議会の答申でこれは整備路線ということで、なにわ筋線というものを二〇〇五年までにやろうと考えております。新大阪からなにわ筋を南下しまして、ー方は湊町の関西線に接続し、もう一方は途中で別れて南海高野線の汐見橋につなぎます。これができますと完全に空港と直結できるようになります。こ.ついうことをぜひともすすめていきたいというふうに思っております」
 汐見橋線がどのような形で脚光を浴びるのか、それが西成の街づくりにどのようなかかわりがでてくるのか、はたしてどんでんがえしはあるのかないのか。しっかりとみきわめていかなければと思う。