今昔西成百景(037)

◎汐見橋線

 NHKの朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」もいよいよ終盤に入っているが、話は二転三転していったいどこに落ち着くのやら、最後にどんなどんでん返しがあるのか、毎日目がはなせない状況である。
 「ふたりつ子」の舞台となっている「野田豆腐店」のある商店街の背後に、ときどき二両連結の電車が走るが、なんという名のロ—カル線かと、疑問に思っておられる視聴者も多いことだと推測される。
 この電車こそわが西成区を終点とし、隣の浪速区を始点とするも五駅中三駅は地元にあるという、十五分に一台づつ発車している歴史と伝統のある、南海汐見橋線なのである。

もとは汐見橋駅が高野線の始発駅

 かって真言密教の霊場、高野山に参拝するには徒歩に頼るしかなかった。そこで明治三十一年一月に高野鉄道が大小路(現堺東)から狭山間に鉄道を敷設、つづいて狭山—長野(現河内長野)間を延伸、そしてその二年後の明治三十八年八月に大小路—汐見橋間が開通し、汐見橋が高野線の始発駅となった。全線単線で重量三〇トンの小さな蒸気機関車をもって運行が始まった。

幾多の変遷の後念願の高野山へ

 今の高野山行きの電車は難波が始発駅だが、変更になったのは大正十四年。高野鉄道がその後「高野登山鉄道」となり、またその後「大阪高野鉄道」となり大正十一年九月に南海鉄道と合併して、南海高野線となった。
 トンネル二十五ケ所、急カーブ四十ケ所を超えた難工事であったが、昭和四年二月にやっと極楽橋まで開通、高野山頂までの路線はケ—ブルカ—が昭和五年六月になって完成、ついに汐見橋—高野山が全通した。

戦後さびれた汐見橋線

 戦前までは田園地帯を走る高野詣での路線でしかなかった高野線も、昭和三十年代以降は大きく変わり、いまや朝夕は通勤客でこみあい、休日ともなれば観光とレジャ—ににぎわう路線となつた。
 駅が開設された頃の汐見橋周辺は、大阪市内の交通の要衝であった。汐見橋駅のすぐ近くには国鉄(現JR)の終着駅・湊町(現JR難波)駅があり、また道頓堀の川筋をひかえ貨物の集散も多いところであった。
 汐見橋—岸の里間がいまのようにすっかりさびれてしまったのは、戦後の市電廃止・地下鉄の整備・貨物の営業活動廃止・沿線企業の移転・廃業などによる。

三十年前の雰囲気残るタイムトンネル

 先日久しぶりに汐見橋線に乗車してみた。沿線は民家や工場の裏手に当たるためか、その風景は昔とあまり変わっておらず、三十数年前に青年連動や労働連動のオルグとして毎日のように大正区や港区にこの電車で通い、よく終電車でかえっていた日々を思い出し感無量であった。
 汐見橋駅に降りたってめずらしいものを発見した。それは壁面いっぱいに描かれた、南海電車沿線名所-旧跡を紹介する大地図である。海水浴場がずらりと並んでいるのも、いまは無残に埋め立てられてしまったこれら白砂青松の地の無言の訴えと感じられた。

汐見橋線の今後の運命にどんでん返しはあるか

 「汐見橋線はやがて廃線になるのですか」とよく聞かれる。西成区民としては十数年前に、南海天王寺線が廃線になつた苦い経験があるから不安になるのだろう。しかしいま、汐見橋線の運命は西成区民の思惑をこえたところで論議され、計画が進められているのである。次に大阪市建設局理事仙石泰輔氏のある座談会での発言の一部を紹介しておく。
 「新しい鉄道計画がございます。運輸政策審議会の答申でこれは整備路線ということで、なにわ筋線というものを二〇〇五年までにやろうと考えております。新大阪からなにわ筋を南下しまして、ー方は湊町の関西線に接続し、もう一方は途中で別れて南海高野線の汐見橋につなぎます。これができますと完全に空港と直結できるようになります。こ.ついうことをぜひともすすめていきたいというふうに思っております」
 汐見橋線がどのような形で脚光を浴びるのか、それが西成の街づくりにどのようなかかわりがでてくるのか、はたしてどんでんがえしはあるのかないのか。しっかりとみきわめていかなければと思う。

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