今昔木津川物語(029)

◎西成と京都のつながり

 西成区の中央部は道路が碁盤《ごばん》の目のようになっていて、東西の通りには北から梅・松・橘・桜・柳の名前がつけられている。「まるで京都のようだ」という人もいるが、京都には花の名前の通りはない。西成の通りのこの華やかな名前は、一体いつどうして付けられたのか。

命名は明治に夢描いて

 明治三八年一月、日露戦争において、旅順要塞に籠城していたロシアの兵士約二万人が俘虜《ふりょ》として日本へ送られてきた。その収容所が、第五回内国勧業博覧会が終了した浜寺公園と、西成天下茶屋に急きよ設けられた。天下茶屋俘虜収容所は、南海天下茶屋駅の北西側の畑の中で、 敷地は約六万坪もあり、その周囲は杉板塀をはりめぐらし、庁舎は平家建六十棟の中に各種の付属庁舎があり、水道・電灯・電話を装置した大規模なものであった。
 明治四一年十一月、その使用が廃止されたので地主に返還されたが、元通りの畑地とするには境界も不明で困難であった。この頃天下茶屋駅の東側は、流行の郊外生活むけの別荘地として急速に発展していた。
 そこでこの際とばかり、今宮耕地整理組合の結成が認可され四四年四月そのエ事を完成させた。これは当時の周辺町村では類例のない画期的なことで、勝田村長の英断と努力の結果であった。耕地整理といってはいるが、最初から清新な住宅地とする計画の下での区画整理であり、大きな夢をえがいてその時に、梅・松・橘・桜・柳の各通りが命名された。

西成になぜ四条や花園が

 明治四三年十—月に第二耕地整理組台結成の認可がされたが、その範囲は第一回の約四倍の大きさであった。その完成をみたのは大正九年三月末であり、旭・鶴見橋・長橋・出城・開・四条・花園の各通りが誕生した。
 ここで、昔から今宮村の字名にある「四条ケ辻・花園・油小路」のうち二つが残ったわけだが、これらの古くからの地名の由来を調べてみると面白いことがわかる。
 今宮村は古来は津江《つえ》の庄《しょう》と称し、その後今宮荘となり今宮村になったが、当時は一漁村であった。そしていつの頃からか朝役・神役という故事があった。朝役とは、朝廷に日々の魚を奉る役で、平安|遷都《せんと》の際には四条通り、油小路西へ下るところに詰め所がつくられてあったという。
 一方、花園は京都御室の妙心寺近くにあり、洛北紫野大徳寺近くに今宮神社があるが、今宮村との関係はそれぞれどうなっているのか……

自転車置き場の増設を

 地下鉄堺筋線の延伸により、天下茶屋と京都は直通で結ばれた。一日京都を歩いて西成との関係を訪ねてみたいものだ。
 それにしても、天下茶屋駅周辺の放置自転車の状況は、最近ますます深刻になつている。このままではせっかくの、西成の新しい玄関口も台無しになつてしまう。この際駅の南と東に自転車置き場を新設すべきだと思う。駅前のスペ—スは十分にあるので、市は決断をくだすべきだ。そして、地下鉄花園町駅西側と同じく玉出駅北口にも新設が必要ではないか、ー駅一ヶ所では矛盾が続出している。

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