今昔木津川物語(030)

◎続西成と京都のつながり

 西成区の地名に京都の地名と同じものがいくつかあり、旧今宮村と京都とのつながりを考えさせるきっかけとなった。旧今宮村とは現在でいえば、岸の里交叉点を南北に分ける松虫通(木津川平野線)から北側へ、浪速区の南側の一部にも入り込んだ地域で、その中で例えば、今は町名改称のためなくなってしまったが、「東四条」とは今の今宮中学校辺りで「西四条」とは今宮工業高校辺りで、「油|小路《こうじ》」とは今宮高校辺りのことであった。これらは、難波江のー漁村であった旧今宮村がかかわっていた、朝役・神役の故事と深く関係している。すなわち、朝役とは朝廷に日々の魚を奉ずる役で、この起源は平安初期にまでさかのぼるという。神役とは毎年六月の祇園祭に今宮村から百六十人が上洛《じょうらく》して神輿《しんよ》を担ぐ役を奉ずるものである。朝役のために、京都四条通り油小路西へ入る南側に間口十三間、北側に間口二十二間の地を詰め所として使用していたというから、「四条・油小路」の地名のでどころははっきりしている。

花園・今宮の関係は

 そしてそれでは、今も西成で地名として使われている「花園」と、地名として西陣の宮・今宮神社は使われていないが、学校などの名前として残っている「今宮」は京都とどう結びつくのか、興味しんしんというところである。
 今宮は今宮戎神社から由来するかのようなかきかたを、戦後の浪速区史はしているが、戦前の西成区政誌には、「洛北|紫野《むらさきの》大徳寺付近に今宮と称する地ある」とあり、私は西成区政誌の立場から、残暑きびしい八月のある日、家族と共に京都に探求の旅を行った次第である。
 大徳寺近くの今宮神社は大きな神社であり、古めかしい社も多く、歴史を感じさせる予想以上のものであった。

西陣の宮・今宮神社

 神社で分けていただいた「今宮神社由緒略記」から次に少し引用させていただく。
 「京都市北区紫野今宮町にある今宮神社は平安建都(七五四)以前からこの地に、疫病《えきびょう》(はやり病)を鎮《しず》めるために、疫神《えきじん》を祀った社があったといわれる。ところが平安建都以後、京都は諸国からの来往がはげしくなり、次第に都市として栄えていったものの、疫病や災害がしばしば起こり、このため人心は安らかでなかった。そこで疫災をはらうよう「御霊会」(ごりょうえ)が、八坂神社の祇園会(祭)など各地でやられ、紫野御霊会もそのひとつである。

人形を難波の海へ

 すなわち、一条天皇の正暦五年(九九四)疫病は都で猖獗(しようけつ)をきわめ、四月頃には洛中洛外に病者の行倒れがおおく、六月になると洛中を疫神が横行するという流言で家々は門戸を閉して、通行人の影も見られなくなった…。
 そこで、同年六月二十九日朝廷では神輿二基を造らせ、病魔の憑《つ》く人形を人間に見たて神輿様のものに乗せ難波江に流したという。
 ところが、それから数年もたたない長保年 (一〇〇一)にまたも疫病が流行し都の人々を大いに悩ました。そこでそれまであった疫社を現在の当社の地に奉還しこれを今宮社と名付けた。当時この地は花園とよばれていた」と、あらすじはこうである。
 人形の流す海はそれまで「朝役」で縁のあった、難波の漁村の人々が案内したのであろう。そして一層京都とのつながりが深まり、今宮・花園の地名をもらったのではないか。

現代の厄災は消費税とリストラ

 さて、地名のなぞはなんとか解決できたが、海に流しようのない現代の厄災はやはり消費税とリストラではないか。これの退治は神頼みでなく、人頼みあるのみ。共にがんばろう。

今昔木津川物語(029)

◎西成と京都のつながり

 西成区の中央部は道路が碁盤《ごばん》の目のようになっていて、東西の通りには北から梅・松・橘・桜・柳の名前がつけられている。「まるで京都のようだ」という人もいるが、京都には花の名前の通りはない。西成の通りのこの華やかな名前は、一体いつどうして付けられたのか。

命名は明治に夢描いて

 明治三八年一月、日露戦争において、旅順要塞に籠城していたロシアの兵士約二万人が俘虜《ふりょ》として日本へ送られてきた。その収容所が、第五回内国勧業博覧会が終了した浜寺公園と、西成天下茶屋に急きよ設けられた。天下茶屋俘虜収容所は、南海天下茶屋駅の北西側の畑の中で、 敷地は約六万坪もあり、その周囲は杉板塀をはりめぐらし、庁舎は平家建六十棟の中に各種の付属庁舎があり、水道・電灯・電話を装置した大規模なものであった。
 明治四一年十一月、その使用が廃止されたので地主に返還されたが、元通りの畑地とするには境界も不明で困難であった。この頃天下茶屋駅の東側は、流行の郊外生活むけの別荘地として急速に発展していた。
 そこでこの際とばかり、今宮耕地整理組合の結成が認可され四四年四月そのエ事を完成させた。これは当時の周辺町村では類例のない画期的なことで、勝田村長の英断と努力の結果であった。耕地整理といってはいるが、最初から清新な住宅地とする計画の下での区画整理であり、大きな夢をえがいてその時に、梅・松・橘・桜・柳の各通りが命名された。

西成になぜ四条や花園が

 明治四三年十—月に第二耕地整理組台結成の認可がされたが、その範囲は第一回の約四倍の大きさであった。その完成をみたのは大正九年三月末であり、旭・鶴見橋・長橋・出城・開・四条・花園の各通りが誕生した。
 ここで、昔から今宮村の字名にある「四条ケ辻・花園・油小路」のうち二つが残ったわけだが、これらの古くからの地名の由来を調べてみると面白いことがわかる。
 今宮村は古来は津江《つえ》の庄《しょう》と称し、その後今宮荘となり今宮村になったが、当時は一漁村であった。そしていつの頃からか朝役・神役という故事があった。朝役とは、朝廷に日々の魚を奉る役で、平安|遷都《せんと》の際には四条通り、油小路西へ下るところに詰め所がつくられてあったという。
 一方、花園は京都御室の妙心寺近くにあり、洛北紫野大徳寺近くに今宮神社があるが、今宮村との関係はそれぞれどうなっているのか……

自転車置き場の増設を

 地下鉄堺筋線の延伸により、天下茶屋と京都は直通で結ばれた。一日京都を歩いて西成との関係を訪ねてみたいものだ。
 それにしても、天下茶屋駅周辺の放置自転車の状況は、最近ますます深刻になつている。このままではせっかくの、西成の新しい玄関口も台無しになつてしまう。この際駅の南と東に自転車置き場を新設すべきだと思う。駅前のスペ—スは十分にあるので、市は決断をくだすべきだ。そして、地下鉄花園町駅西側と同じく玉出駅北口にも新設が必要ではないか、ー駅一ヶ所では矛盾が続出している。