今昔西成百景(015)

◎千本松渡船

 一九六八年から五年間の工事で完成した木津川にかかる千本松大橋は、長さ二四〇〇メ —トル、高さ三七メートル、中央部の支間が一五〇メートルという、天草・若戸・西海・尾道の各大橋についで日本で五番目のノッポ橋。両岸に二階式のラセン状ランプウエ—を採用したのはわが国では初めて。
 建設計画が公表されると、地元では、便利になるが公害も心配だという意見が聞かれた。しかし、橋の完成と同時に渡船は廃止されると知って、それは困るという点で一致した。
 江戸の昔より連綿として続いている、通勤・通学・買い物の足であり、思い出も一杯積んだ渡船が無くなり、代わりに目のまわるような自動車中心の橋。歩いて渡れば三十分もかかろうし、自転車や単車は危険、年寄や病人・障害者などはとうてい渡り切れるものはない。夜間の防犯対策はどうするのか……。
 「市当局は一体何を考えているのか」と、南津守商店街や町会の有志より、南津守三丁目の日本共産党事務所(当時・木津川地区)へ相談があり、私は直ちにそれに応じて、同時に他の行政の課題にも積極的に取り組もうと、みんなで「南津守を良くする会」を作り、十大地域要求を掲げての決起集会も南津守会館で盛大に行なった。今から思えばなんと段取り良く出来たことかと感心するが、それ程要求が切実であったということだろう。
 役員には、細川氏(理髪店)松本氏((豆腐店)細川氏(大番食堂)竹内氏(ヒロ理髪店)小畑氏(長寿荘)松浦氏(住宅)、会長には山下氏(自転車店)がなり、私が事務局を担当した。

みんなで考えた”名文句”

 「橋は出来ても渡しは残せ」という川柳のような言葉は、皆で立看板作りをする中から生まれたものだが、その後運動の合言葉になり、今も語りつがれている。
 廃止反対の請願署名は、橋完成の六ヶ月前に行った。巨大な竜が木津川にまたがっているような建設中の橋を見上げ、粉雪の舞う中、渡船の現場で朝六時から夜十一時までを二日間、一日目は渡船利用者に署名用紙を配り二日目で回収した。ドラムカンに古材を燃やし暖を取ろうとしたが、川風は容赦なく吹きつけた。署名の反響は大きく、西成区だけでなく住吉区や堺市の人も多くあった。労働者の大きな手で「渡船の存続よろしくお願いします」と握手され、地元の人達は感激していた。

市の住民無視は今もかわらず

 しかし大阪市会はこの三千数百の貴重な署名を、いとも簡単に否決してしまつた。廃止に反対し存続を主張したのは日本共産党だけで、他の自・社・公・民の各党は「廃止は決定済み、橋と渡船の共存は前例がない」との理由である。
私達は負けていなかった。橋のオ—プンの前に歩行者だけに開放する日、西成民主診療所の所長以下の協力によって、老若男女のモデルに実際に歩いて橋を渡ってもらい疲労度を調査した。そのデ-夕-を手にして、四方市議と私で市の土木局長と直談判。良くする会の山下会長、役員さんらと共に上京し、国会で運輸省の担当官に、正森代議士の支援で陳情もした。
  その結果、「橋完成後も当分の間は様子を見るために渡船を運行する。利用者が減少すれば廃止する」と市の態度が変化してきた。もちろん珍しがって一度は歩いて橋を渡った人も、二度と遺ることは無かったので、渡船はその後二十年間存続し続け、その間に市も新しい船に替えたりして今日に至っている。
 今年七月に行われた日本共産党第二十回党大会は、今の時期にこそー九六〇年代終わりから七〇年代前半の革新の高揚を再現することを決定した。私にとってはこの千本松渡船存続の大衆闘争に参加したことが、その時期に重なるものであり、私のその後の候補者活動のスタ—卜にもなっている。
(ー九九四・一一)

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