今昔木津川物語(011)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(一)

◎高灯籠《たかどうろう》(日本最古の灯台)(浜口西一)

 住吉大社がある上町台地は、前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》の帝塚山《てづかやま》、茶臼《ちゃうす》山、勝山古墳《かつやまこふん》などがあるところで、難波京《なにわのきょう》のおかれていたところでもある。

上町台地《うえまちだいち》は大阪|文化発祥《ぶんかはっしょう》の地《ち》

 熊野詣で知られる熊野街道が、台地の西端で南北に伸びており、それに沿って高津《たかつ》神社、生国魂《いくたま》神社、四天王寺《してんのうじ》、住吉大社があり、中世《ちゅうせい》の石山寺《いしやまでら》、近世《きんせ》の大坂城もこの台地に存在した。
 上町台地は、南北十二キロ、東西二・五キロの細長い台地で、法円坂《ほうえんざか》付近《ふきん》が二十ーメートルと最《もっと》も高く、住吉では十メー卜ルほどになる。この台地とほぼ並行《へいこう》して南へ伸び、大和川を越えて堺市の三国《みくに》ケ丘へ続いて、我孫子《あびこ》台地(平均十メートル)があり、古代《こだい》は共に深い森林《しんりん》の中であった。

住吉細江《すみよしほそえ》や墨江津《すみのえづ》

 上町台地と我孫子台地の間のくぽ地を流れるのが細江川(細井川ともいう)でその川下は大阪|湾《わん》からの入江になっていて、住吉細江と呼ばれた。
 この奥《おく》に日韓《にっかん》交易《こうえき》の港《みなと》として、北の難波津とともに古代大阪の要津《ようづ》となった墨江津があり、遣唐使船《けんとうしせん》も住吉神社に祈祷《きとう》してここから発着《はっちゃく》した。交易品《こうえきひん》は長尾《ながお》街道を通って奈良の都に運ばれたが、港でも市が開かれて住吉の繁栄《はんえい》を築いたという。港《みなと》を支配していたのが地元の豪族《ごうぞく》津守氏、子孫は明治時代まで住吉大社の神主となった。

天下の絶景《ぜっけい》あられ松原《まつばら》

 住吉細江の入口は北が長狭浦《ながおうら》、南が霰《あられ》松原で、幅約百メートルの水路が五百メートルほど東へ割《わ》り込み、松林と丘に囲《かこ》まれた良港だったといわれている。
 沖は住吉津、出見浜《でみのはま》、敷津浦《しきつうら》などと呼ばれる青い海で、難波の八十島《やそじま》が波に見え隠《かく》れし、その間を白い帆《ほ》を上げた船が往《ゆ》き来《き》し、白砂青松《はくしゃせいしょう》の浜辺《はまべ》が南北に果《は》てしなく伸びていた。この景観《けいかん》は昔から和歌に多く読まれているが、戦前にも、戦後は堺泉北《さかいせんぼく》臨海《りんかい》工業|地帯《ちたい》が造成《ぞうせい》されるまでの間、海水浴や潮干狩《しおひが》りで堺の白砂青松の浜辺を知っている者として、その万分の一位は見当《けんとう》がつく。
 海岸線はほぼいまの阪堺線《はんかいせん》あたりとみてよいとすると、紀州街道と重なって想像《そうぞう》できるわけだが、古代で考えれば、矢張《やは》り西成-住之江のつながりは「歴史の海路」となるのではないだろうか。

高灯籠は漁民《ぎょみん》が献灯《けんとう》

 鎌倉《かまくら》時代|末期《まっき》に建てられた住吉の高灯籠は、いまの阪神高速《はんしんこうそく》道路の近く、かつての十三間堀川《じゅうさんげんぼりがわ》の畔《ほとり》にあったわけだから、約八百年の間に自然《しぜん》の力で、陸地化《りくちか》が西へ約六、七百メートルすすんだことになる。
 高灯籠は住吉津の漁民らが、住吉大社への献灯《けんとう》と航海安全《こうかいあんぜん》を祈って住吉の浜に建てたといわれている。高さが石積《いしづ》みを含めて十六メートルもあり、日本|最初《さいしょ》の灯台《とうだい》であった。

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