西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(五)
◎三軒家女工哀史
「区史」というものは、各区の発足何十周年等を記念して、地元の実行委員会から発行されるものがほとんどであるが、実際はお役所ペースでやられる。従って行政や大企業の都合の悪いことは、「区史」が再発行される際に、書き替えられたり、抹殺されてしまい面白くも何もない、ちょうちんもち記事と資料だけが残る。
昔の「区史」は面白い
昔のといっても、明治・大正・昭和なら敗戦直後の頃の発行のものは、ある事柄に違った言い伝えがあれば、それを共に紹介して、読者に考えさせる余裕があった。最近の「区史」はその逆で、お役所と関係の深い学者が、一方的に断定して疑問点は後世に残さない、というやり方をわざととっているのかと、思わせることが多い。
「大正区史」のなぞ
しかし「大正区史」の中には、他区のものとは違った数行があつて、それが区史にまつわる”なぞ“となっている。
それは、明治十六年から三軒家村で操業を始めた、大阪紡績会社の創設という部分から始まる。
同社の創業者は国立第一銀行頭取渋沢栄一で、輸入綿糸の為替が巨額なのに目を付け、国内にー万錘以上の大工場の建設を目標とした。
経営者には、当時英国に留学していた山辺丈夫に白羽の矢を立て、研究資金を送った。明治十五年工場完成、三軒家村は都心から離れているが古くから船着き場としてにぎわい、石炭や原料等の運搬に便利なため選ばれたという。明治二十二年に増築された時には、れんがづくり四階建てで、六万錘を備え、工員数四千人を擁する業界の最大手となった。
紡績史上最初の重大事件
明治二十五年十二月二十日、大阪紡績工場から出火した火事は、多くの女子エ員を犠牲にする大惨事になった。火は壊れた窓から吹き込んだ風によって一度に燃えひろがり、逃げ遅れ主に三階のかすり場にいた女子工員達は、階段で折り重なって倒れていた。
九十六人のうら若い乙女の命を奪い、二十二人を負傷させたこの出来事は、紡績史上見過ごすことの出来ない、最初の重大事件であった。
大阪紡績はこの火事で、工場と紡機三万千三百二十錘を消失、四十万八千百九十一円余の大きな損害を受けた。しかし、同社はこの被災によって、古い紡機を一挙に二万四千錘の最新式リング精紡機に更新した。
山辺はその後も増錘と企業合併を繰り返し、大正三年、三重みえ紡績と合併して東洋紡績となるころには、約十五万錘に達する盛況を示し、山辺は東洋紡社長を最後に大正九年五月十四日、六十九オで没したが、同社は昭和六年、大阪紡績と合併して世界最大の紡績会社に発展した。
タヌキのたたりで済みか
「大正区史」は同時に、明治二十一年山辺社長の一人息子が、工場内であそんでいるときに機械に巻き込まれ、惨死する事件が生じた。葬儀は盛大なもので、岩崎の火葬場へ行列の先頭が着いたとき、しんがりはまだ自宅前だったということ。
山辺社長はまた、愛児の死を悼んで小学校に多額の寄付を行ったこと等を、「美談」として今に伝えている。
そして「大正区史」は、つぎに「この悲劇は、明治二十五年十二月の大阪紡績の大火とともに工場建設の際タヌキの巣をつぶしたたたりといわれている」と、はっきりと書いているのである。公文書のように、あたらずさわらずになってきている「区史」に、迷信としか言いようのない「タヌキのたたり」説をわざわざ紹介する裏に一体何があるのか。私は筆者がただ単に無神経に書いたとは思えない。三軒家が発祥の地となった大企業が、犠牲となつた乙女たちになにを報いたのか、何の記録も残っていない。この惨事を伝えるのも、今ではここしかない。しかも山辺社長の「美談」の方が大きく伝えられてきていることへの疑問。「タヌキのたたり」という世間の、うわさは、会社の責任を少しでもあいまいにしてしまったとしたら、得をしたのは一体誰か…。うわさを流したのは一体誰か…。
区史の筆者は後世のわれわれに本当は何を伝えたかったのか、それは”なぞ“であるが、多くのことを考えさせてくれたことだけは間違いない。


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