今昔木津川物語(027)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(五)

◎三軒家|女工哀史《じょこうあいし》

 「区史」というものは、各区の発足《ほっそく》何十周年等を記念して、地元の実行委員会から発行されるものがほとんどであるが、実際はお役所ペースでやられる。従《したが》って行政や大企業の都合《つごう》の悪いことは、「区史」が再発行される際に、書き替えられたり、抹殺《まっさつ》されてしまい面白《おもしろ》くも何もない、ちょうちんもち記事と資料だけが残る。

昔の「区史」は面白い

 昔のといっても、明治・大正・昭和なら敗戦直後の頃の発行のものは、ある事柄《ことがら》に違《ちが》った言い伝えがあれば、それを共に紹介して、読者に考えさせる余裕《よゆう》があった。最近の「区史」はその逆で、お役所と関係の深い学者が、一方的に断定《だんてい》して疑問点《ぎもんてん》は後世に残さない、というやり方をわざととっているのかと、思わせることが多い。

「大正区史」のなぞ

 しかし「大正区史」の中には、他区のものとは違った数行があつて、それが区史にまつわる”なぞ“となっている。
 それは、明治十六年から三軒家村で操業《そうぎょう》を始《はじ》めた、大阪紡績会社の創設《そうせつ》という部分から始まる。
 同社の創業者は国立第一銀行頭取渋沢栄一で、輸入《ゆにゅう》綿糸《めんし》の為替《かわせ》が巨額《きょがく》なのに目を付け、国内にー万|錘《すい》以上の大工場の建設を目標《もくひょう》とした。
 経営者には、当時|英国《えいこく》に留学《りゅうがく》していた山辺丈夫に白羽《しらは》の矢《や》を立て、研究資金を送った。明治十五年工場完成、三軒家村は都心から離れているが古くから船着き場としてにぎわい、石炭《せきたん》や原料等の運搬《うんぱん》に便利なため選ばれたという。明治二十二年に増築された時には、れんがづくり四階建てで、六万錘を備え、工員数四千人を擁《よう》する業界の最大手《さいだいて》となった。

紡績史上最初の重大事件

 明治二十五年十二月二十日、大阪紡績工場から出火した火事は、多くの女子エ員を犠牲《ぎせい》にする大|惨事《さんじ》になった。火は壊《こわ》れた窓《まど》から吹き込んだ風によって一度に燃えひろがり、逃げ遅《おく》れ主に三階のかすり場にいた女子工員達は、階段《かいだん》で折《お》り重《かさ》なって倒《たお》れていた。
 九十六人のうら若い乙女《おとめ》の命を奪《うば》い、二十二人を負傷《ふしょう》させたこの出来事は、紡績史上|見過《みす》ごすことの出来ない、最初の重大事件であった。
 大阪紡績はこの火事で、工場と紡機《ぼうき》三万千三百二十|錘《すい》を消失、四十万八千百九十一円余の大きな損害を受けた。しかし、同社はこの被災《ひさい》によって、古い紡機を一挙《いっきょ》に二万四千錘の最新式リング精《せい》紡機に更新した。
 山辺はその後も増錘《ぞうすい》と企業合併《きぎょうがっぺい》を繰《く》り返し、大正三年、三重《みえ》紡績と合併して東洋紡績となるころには、約十五万錘に達する盛況《せいきょう》を示し、山辺は東洋紡社長を最後に大正九年五月十四日、六十九オで没《ぼっ》したが、同社は昭和六年、大阪紡績と合併して世界最大の紡績会社に発展した。

タヌキのたたりで済《す》みか

 「大正区史」は同時に、明治二十一年山辺社長の一人息子が、工場内であそんでいるときに機械に巻き込まれ、惨死《ざんし》する事件が生じた。葬儀《そうぎ》は盛大《せいだい》なもので、岩崎の火葬場《かそうじょう》へ行列の先頭が着いたとき、しんがりはまだ自宅前だったということ。
 山辺社長はまた、愛児の死を悼《いた》んで小学校に多額の寄付を行ったこと等を、「美談《びだん》」として今に伝えている。
 そして「大正区史」は、つぎに「この悲劇は、明治二十五年十二月の大阪紡績の大火とともに工場建設の際タヌキの巣《す》をつぶしたたたりといわれている」と、はっきりと書いているのである。公文書《こうぶんしょ》のように、あたらずさわらずになってきている「区史」に、迷信《めいしん》としか言いようのない「タヌキのたたり」説《せつ》をわざわざ紹介する裏《うら》に一体何があるのか。私は筆者《ひっしゃ》がただ単《たん》に無神経《むしんけい》に書いたとは思えない。三軒家が発祥の地となった大企業が、犠牲となつた乙女たちになにを報いたのか、何の記録も残っていない。この惨事を伝えるのも、今ではここしかない。しかも山辺社長の「美談」の方が大きく伝えられてきていることへの疑問。「タヌキのたたり」という世間の、うわさは、会社の責任を少しでもあいまいにしてしまったとしたら、得《とく》をしたのは一体誰か…。うわさを流したのは一体誰か…。
 区史の筆者は後世のわれわれに本当は何を伝えたかったのか、それは”なぞ“であるが、多くのことを考えさせてくれたことだけは間違《まちが》いない。

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