今昔木津川物語(028)

◎玉出遺跡(西成区玉出西ー)

 昭和三十二年十月五日の「サンケイ新聞」は、地下鉄三号線延長工事現場(岸之里駅から玉出駅間の地下四㍍〜五㍍)の土砂の中から、土器やカイ類を集めていた中学生の成果が四日、専門家から貴重なものと評価されたと報じている。

玉中の生物クラブが発掘

 西成区玉出中学校の生物クラブでは担任の教師の指導で、二十数名の生徒が学校東側の地下鉄工事現場で掘り出される土砂の中に、土器やカイ類があるのに目をつけ、昭和三十一年から一年がかりで、毎日放課後バケツを持って、工事現場の地下にもぐり、自分たちで、それぞれの深さの土砂をスコップで掘りバケツに入れて学校に持ち帰り、水洗いして選び出した。寒い中、工事現場の泥にまみれて収集する生徒の熱心さにうたれて、現場の労働者も協力してくれたという。
 当時の資料によれば、発掘したカイ類は約八十種類で、中には現在の日本ではすでに死滅しているものもあり、その他シカの角、たこつぼ、網のおもり、水さしなど紀元前一〜二世紀から、奈良時代までの土器が三十数点あり、その中に考古学上貴重な墨書人面土器があったとのこと。

謎の土器

 墨書《ぼくしょ》人面土器とは、人の顔が書かれた土器で、大阪では森之宮遺跡など三点しかない貴重品。人面図の表情は両眼は目尻の上がった特異な形で、口はへの字形で右端に長く伸びた滑稽味のある表現で、一見戯画的な性格を表現したもので、祭祀《さいし》に用いられたものではないかと想像されている。
 報道では専門家が、「この辺りに住んでいた人の遺跡が、鎌倉時代にいったん三㍍位下がって一時海中となり、その後また上かったものではないかと考えられる」と話していた。

太古大阪は風かおる高原

 今からおよそ三万年から一万年前頃の間、後期旧石器人が活躍していた時期、地球の海水は現在より百五十㍍も下がつたといわれ、その後しだいに気候も温暖化して、縄文時代前期には海水面が最高に上昇し「縄文海進」とよばれた。この頃大阪平野のほとんどが海中に没する。海水が下がった時期には、日本列島は大陸とつながり、陸地を伝ってナウマン象、オオツノジカなどの大型獣が日本列島に移動し、これらの動物を追って人々がやってきたことは確かであろうといわれている。
 この当時大阪は海抜百五十㍍以上の高地になっており、現在の大阪湾の中心部には古淀川が流れていて、紀伊水道辺りが海岸線となっていたという。

玉出の古代人はどんな人

 玉出に土器が出土したときけば、どうせ海水に押し流されて来たのだろう、と思いがちであるが、このようにかっては玉出も、尾瀬や北海道の沼沢地にみられる水草が咲き乱れ、現在の札幌市辺りの気候に類似した、針葉樹・広葉樹が混生して繁茂する緑豊かな高原であったと知れば、どんな先住の大阪人が住んでいたのかと興味はつきない。
 昭和三十二年といえば戦後の復興から経済の高度成長がさけばれ始めた頃、もし玉出中学校の先生と生徒の熱意と、エ事現場の人々の理解と協力がなければ、「玉出遺跡」も闇から闇へ葬り去られていたことはまちがいない。

神の国でなく人間の国

 今度の総選挙で「日本は天皇中心の神の国」といいはなち、批判をうけても撤回しようとしない森首相ひきいる、自民・公明・保守の与党は大敗した。日本の昔話を天皇中心の「神話」にすり替えていった時よりもっと大昔から、日本は人間と自然が共存していた平和な国だったことを、本当に理解しなければ、またすぐに失言しそれが政権の命取りになりかねないであろう。

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