◎天下茶屋跡
岸里東二丁目十番地に天下茶屋跡がある。
昭和五六年八月、西成区役所区民室発行の「あるいて知ろう西成区」では、「旧住吉街道沿いにある天神の森天満宮から西へ約五十m入ったところに、天下茶屋の地名の発祥となった天下茶屋跡がある。今は昔をしのばせるくすのきの大樹の下に、天下茶屋跡の石碑と、だれが供養するのか季節の花に飾られた太閤さんの石像が忘れられたように建っている。太閤さんが今から約四百年前の天正年間(一五七三—九〇)住吉神社への参拝や、堺政所(奉行所)への往来の途中、天満宮付近の茶店で休息、茶の湯を楽しみ風景を賞したことについて、世人この地を天下茶屋と称するに至ったと伝えられている。その由来を示す太闇さんが休息した建物などは戦災で焼失し、今は一体の石像のみが当時をしのばせている。天下茶屋跡は大阪市顕彰史跡に指定されている」と記されている。
平成七年三月西成区コミュ二ティ協会(区役所が事務局)が発行した「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によると、「今から四百年も余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、くすのきの大樹と土蔵、石像だけが残っている。昭和六十二年に現在のものに修復された。この土蔵は屋敷の北西隅に位置し、恵方にむかって建てられ太閤さんを祀った祠で、くすのきと共に往時をしのぶものである一大阪市顕影史跡」となっている。天下茶屋公園(是斉屋跡)の場合とちがって両方の案内文に基本的な相違はない。
芽木家対津田家の本家争い
しかし、明治三十二年発行の「南海鉄道旅客案内」のなかには是斉屋について、「又この家には昔太閤が立寄られたという伝えがありまして、遺物などがあります」とあり、大正八年に出された東成郡史にも天王寺村の旧家として「芽木家の外、橋本氏(旧津田氏)の天下茶屋は宝暦年間初めて戯曲(祇園祭礼信仰記)に仕組まれたる和中散是斉の薬店として世に聞こえたり。(攝津名所図会)に引く所の安永八年(一七八〇)の(壷天閣記)によれば、此薬店は寛永中津田氏の祖宗本、これを創め、次男総左衛門別號是斉、別舗を江州梅の本村に開く。この家亦芽本家と同じく豊太閤御茶の水とて「蟠龍水」の址あり。千利休これを汲みて太閤に侑めたりと伝えられ、又豊公の小祠あり。庭宅今は大阪市某の所有に帰し、其旧形を改めたれども、明治十年明治天皇御駐輩所建物は、今も門内正面の庭中に保存せらる。…当日橋本尚四郎、同久五郎はお茶を献したり。翌十五日玉座拝観の衆庶雑踏したり」と記されている。
昭和二六年にだされた西成区政誌には「戦災前に天下茶屋と賞するものにニヶ所があった。その一つは明治元年四月、明治天皇の休憩所に充てられた壷天閣のある所と、今一つは秀吉の茶屋と称する小亭のある所で、傍の古井戸を『恵の水の井戸』と称え、秀吉の点茶の水であったと伝えていたが、何も戦災にあって今はない」となっている。
密室での歴史のぬりかえ
以上みてきたように、永年の間、二つの「天下茶屋」として激しい本家争いを行ってきたこの一件も、今度の市が天下茶屋公園から太閤にまつわる一切の看板類を撤去したことにより、また区内各所案内書から、天下茶屋跡を芽本家一本にしぼったことで、落着したということになるのか。
いずれにしても、区民不在の密室のなかでやられたことであり、別にどちらの肩をもつわけでもないのであるが、「現代西成百景」としては、もう少しこだわって、掘り下げてみたいと思う。
“今昔西成百景(039)” への1件の返信