今昔西成百景(040)

◎明治天皇駐蹕(ひつ)遺址碑

 現在の芽本家当主、芽本正弘氏が平成五年六月に雑誌「大阪春秋」に発表しているものに「徳川末期維新前になると、津田是斉が近江梅木から出店を出して対抗し、芽本家の軍散中に対して和中散を売り広めた。全く模倣して、贋物を集めいかにも豊太閤が休んだ休憩所のように自筆の書などを揃えて、世の人々をまやかした。又甚だしくは、儒者や戯作者までも動員し、宣伝・広告に努めたために、如何せん、人気はこの津田家に集まり、一時期の間芽木家は第二者になってしまう。結果、津田『ぜさい』が本家のようになって千客万来となり、諸種の書物や天下茶屋公園内(是斉屋跡)にある案内書にも本家芽木家を圧倒した姿になって天下茶屋の名をほしいままにしました」というのがあるが、ある程度事実を反映しているのではないかと思う。
 太閤とのかかわりをはがされ裸にされた天下茶屋公園に、いま唯一異彩を放っているのが、明治天皇駐蹕遺跡碑である。西成区コミュニティマップによれば「大正八年建、藤沢南岳が裏面に見事な漢字で由来を誌している。明治元年四月二十日、同十年二月十四日、明治天皇が駐輦臨幸した地である。館主は仮殿を造り奉迎したが、五十年の星霜が経ち、主人高津津久右衛門は荒廃した仮殿を撤去し、この碑を建てることにした。不朽の美挙である」と説明されている。

是斉屋に箔をつけたのは

 是斉屋が太閤との「ゆかり」をいいだしたのは、徳川幕府の権力が弱まり、ある程度豊臣家についてもものがいえるようになりだした、幕末の頃からであろう。商才にたけた是斉屋は、落日の徳川よりも、徳川に無残なつぶされ方をした豊臣秀吉に庶民の同情が集まっていることを見抜き「天下茶屋」を売り出していったのではあるまいか。
 しかし、是斉屋の「天下茶屋」に絶対的な箔をつけたのは、二度にわたる明治天皇の是斉屋への来訪である。「明治天皇この旧跡に臨幸し英雄秀吉をしのんだ」の立て札が立ちもうこれで少なくとも敗戦までの八十年間、是斉屋を疑うことはできなくされてしまった。
 戦前明治天皇の碑のまわりには、がんじような鉄さくをめぐらし、まるで一見御陵のようなふんいきをつくりだし、区民を威かくしていた。
 戦後になり民主憲法の下で、明治天皇碑の鉄さくは除去されて、昭和二六年四月三十日旧是斉屋跡地は、西成区での児童公園第一号として、紹鷗の森の緑の名残りをくすのきの大木にとどめて区民に解放された。

変身をくりかえす「秀吉像」

 絶対主義的天皇制の下での「畏敬」の地から、緑したたる憩いの場への大変身をとげたこの公園に、太閤も「国家の英雄」から「庶民の英雄」としてそっと帰ってきていた。
 有名な江戸時代の文献「攝津名所図会」をみれば、「名産和中散・津田氏という寛永年間先祖宗本の時よりここに初て売りひろむとぞ、薬店の間口数十間をひらき床椅数脚をならべ往来の人を憩わし、薬を湯に立て施す事四時間断なし、庭前に草亭ありこれを壷天閣という」と寛永年間より始められたことが明らかにされている。三十年も前に死亡した秀吉がのこのこと大阪城から通ってくることなど、誰が考えてもおかしいと思うはずのところが、戦後四十年近くも「太閤秀吉ゆかりの公園」として生きつづけた秘密は、児童公園なのでおとぎ話のつもりできいていた、というところかも知れない。「天下茶屋跡が二つあってもええや
ないか」
 「時代が多少ずれてもええやないか、今更固いこといわんでも」という気持ちの方が強いのが率直なところだが、今度のように市が構えてくると、何か背後にあるのではないかとかんぐりたくもなるものである。
 「信長」「秀吉」ブ—ムがマスコミを通じて、いま起こっている。東欧・ソ連の社会体制の崩壊・他方の資本主義の混迷からくる見通しの不確かさから、信長や秀吉のような先見性、果断な行動力を求める空気があるからだといわれている。英雄、天才は何万人殺そうが許されるというのは、ヒトラ—や日本の軍閥と同じことである。様々に使われてきた「秀吉像」に注目せざるをえない。

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