今昔西成百景(041)

◎天下茶屋史跡公園

 読売新聞平成八年四月十七日付夕刊に「天下茶屋に史跡公園、大阪市計画、日本庭園や茶室,太閤さんしのぶ茶会も」という見出しで次の記事がのっていた。
 「大閤さんが茶の湯を楽しみ、にぎわったことから地名がついたとされる大阪市西成区天下茶屋地区に、大阪市が史跡公園をつくる計画をすすめている。茶室を建てて市民に利用してもらうほか、当時をしのぶ茶会も開く予定だ。世は期せずして豊臣秀吉ブーム。市は『数年来の計画で、ブ—ムに便乗したのではないが、新名所にできれば』と期待している。
 天下茶屋地区は、西成区天下茶屋一-三、岸里東一ーニなどの一帯にあたり、江戸時代の地誌などによると、茶の湯の大成者、千利休(一五二ニー九一)の師である武野紹鴎(一五〇四—五五)の別荘が岸里東二の旧紀州街道近くにあった。秀吉も住吉大社や堺に出向く際にここに立ち寄って、茶の湯を楽しんだとされ、一帯には茶屋が集まっていたことから、その後、天上人と呼ばれ秀吉にちなんで『天下茶屋』の地名が付いたという。計画は、地域の茶道愛好家らが年一回、野だてを楽しんでいる紹鴎の別荘跡地周辺約千五百平方メートルを公園にする。一帯は、空き地や文化住宅で、市は所有者と交渉を進め、今年度中に買収する予定。公園には日本庭園や茶室を作り、別荘のそばには秀吉が『恵みの水』と名づけた泉があったとされることから、茶室前に池を配置して再現、三年後の完成を目指す」というものである。

市の史跡公園第二号に

 最近、市建設局公園課に確かめたところ、用地は七三〇平方メ—トルと新聞発表より小さくなっていたが、今年度中に用地買収をおわり、平成十年度には完成するとのことであった。大阪にゆかりのあった人物の跡地を整備する計画の一環で、天下茶屋が市の史跡公園第二号になるだろうとのことだ。
 「天下茶屋史跡公園」をつくるために、市は天下茶屋公園の「史跡的部分」がじゃまになって、この際とばかりまっさつしたのであろう。公園ができることは結構なことであり、ぜひとも天神森天満宮の縁とつながる、紹鴎の森を思いおこさせるものにしてほしいもの である。

武野紹鴎別荘跡地か…

 新聞発表で気になったことに、用地の面積がその後の市の話とちがうことと、史跡公園予定地が芽木家跡ではなく、武野紹鴎の別荘跡地となっている点である。
 「大阪史蹟辞典(清文堂)には「室町時代末期の茶匠、武野紹鶴は北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道はこの付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鴎は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの社を紹鴎の森と呼ぶようになった。紹鴎は茶の眼目に『和敬静寂』の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた」とかかれている。
 武野紹鴎は弘治元年(一五五五)五十四オで没したとされているが、当時秀吉は十八才、まだ足軽の時代で、茶の湯を楽しむには早すぎる。今までも攝津名所図会大成に「住吉名所図会に豊臣秀吉公此茶店において茶人紹鴎をめして御茶きこしめされしより天下茶屋の名はじまれり、とあるが誤りなり。秀吉公世を治め給ふ天正の中頃より三十年も前に紹鴎は亡き人となれり。紹鴎森があるので作ったもので信用すべからず」とくぎをさされているのである。
 読売新聞の記事が、現場をみれば「芽木家跡」であることは一目瞭然に判るはずで、わざわざカラー写真までのせているのに、あえて「武野紹鴎別荘跡地」としたのには別に何か意図があるのか。私がひそかに抱いてきた一つの疑問と、それは関係づけられるものか。

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