今昔木津川物語(034)

◎帝塚山古墳 (住吉区帝塚山西二—八)

 南海高野線帝塚山駅下車西へすぐのところにある帝塚山《てづかやま》古墳《こふん》は、五世紀代のかなり古い時代の古墳とみられ、前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》として原形を止める大阪市内唯一のものである。
 上町台地の崖に沿って立地し、その墳丘《ふんきゅう》は二段築成で前方部は西南の方向に向き、全長で百二十㍍、 後円部直径五十七㍍、前方部幅五十七㍍、高さは後円部十㍍に前方部八㍍。墳丘をめぐる周壕跡《しゅうごうあと》は幅二—三㍍が確認されている。また墳丘には円筒埴輪や葦石が認められるが、古墳の内部本体については不明。

今は国の史跡で入れない

 昭和三八年(ー九六三)に国指定の史跡になり、現在は高いさくをはりめぐらせ、入口には厳重な鍵がかけられていて、特別の許可がなければ入れない。
 帝塚山という名称の起源については諸説あるが、摂津誌では「陵墓大玉手塚、小玉手塚ともに住吉村玉出岡にあり地に因って墓の名とする」とかかれており、のち玉を略して手塚—帝塚となったというのが、昔、玉出という地名が、住吉神社から北へこの辺りまで一円にあったのかと面白い。

大伴金村は古代史の超大物

 さて、何人が埋葬されているかという点では、大伴金村説が有力である。大伴金村とは、第二十五代|武烈《ぶれつ》天皇時代の大連(むらじ)で、武烈天皇に子孫がいなくなったので、応神《おうじん》天皇の五世の孫といわれる人を越前から連れてきて、継体天皇にしたという、古代史の仕掛人の一人である。しかし継体天皇は皇位についても二十年間、大和に入れなかったというから、金村の強引なやり方に反感を持つ氏诙の箋合が強力であったとうかがえる。
 金村はその後引退して住吉の地に住んで、勢力を広げた。金村か大伴一族の誰かが埋葬されている可能性が高い。

小帝塚は里山の中に

 この塚は、もと大帝塚と小帝塚があり、今の帝塚山古墳の西南へ少し離れたところに小帝塚があった。この古墳の前方部は北北西を向き、全長二九・七㍍の小さな古墳であった。
 実は、大帝塚山も小帝塚山も、私の子供の頃の絶好の遊び場であった。特に小帝塚山は小学校の背後の里山山頂にあり、塚の前は第二運動場のようになっていて、ドッチボールや三角野球などよくやった。
 古墳の端に、松の大木が横に伸びていて、子供たちはそれを馬の鞍に見立てて順番に乗ってゆするので、木の皮がはげてつるつるになっていてよくすべった。
 里山一円は、山あり谷あり、野あり池ありで、まるでバランスよく作られた自然の公園であった。枝を折ってチャンバラごっこの刀にしようが、山芋を掘って持って帰ろうが、誰も怒らなかった。
 夕方にはトンボとり。糸の両端に色付きのセロハン紙で大豆ほどの小石をくくり、空に放りあげると色々なトンボが糸にからまって落ちてくる。取れなかった子には分けてやって、西の空が茜色に染まる頃には、大きな子が人数を確かめてみんなで山をおりた。

軍につぶされた古墳の運命

 戦時末期に、小帝塚山は里山もろとも軍の大規模な高射砲陣地となり、立入禁止で突貫工事。この時に古墳は跡形もなくつぶされてしまった。子供たちの楽園は一瞬にして、銃剣を捧げ持つ兵隊に囲まれた恐ろしい場所となった。
 敗戦後、小学校の高学年であったわたしたちは、毎日のように高射砲陣地の後始末をやらされた。食料はもちろんあらゆる物資が、兵隊たちに我先にと持ち去られた後の、砲弾から兵隊の寝ていた布団まで、栄養失調の細腕でぶら下げて、何回も山を上り下りした。
 その後は、里山を段々畑に変えてしまつた程の、開墾、そしていもづくり。一部では稲も植えた。
 新制中学の入学の写真は高射砲の発射台がバックになっている。それはまるで鉄とコンクリ—卜でつくられた「昭和の古墳」であったが、七、八基もあり各組のそれぞれしばらくは教室となった。
 堅牢《けんろう》な高射砲陣地は、その後何年もかかって破壊され、中学校になって今に至っている。
 大帝塚山にはむしろ中学生になってからの方がよく上った。草の上に寝そべって、友人と本を読んだりして時を過ごしたものだ。
 最近見たある郷土史の本に「小帝塚古墳というのもあったらしい」とふれられていたので、あわてて記憶にある部分だけをかいた。もっとよく調べて、いつか詳しくかいてみたい。

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