今昔木津川物語(035)

◎土佐藩住吉陣屋跡(住吉区東粉浜ニ)

 上町台地の西端の急な坂を降って、地理学的に云えば、いわゆる微高地に立つ東粉浜小学校から、西へ百㍍行けば、チンチン電車として親しまれている、阪堺線が南北に走る旧紀州街道に出る。この街道から東部、東西約百四十㍍、南北約三百六十㍍のほぼ長方形の地域は、旧粉浜村陣屋前といわれたところであるが、ここに幕末維新期に、土佐藩住吉陣屋があったことを知る人は少ない。
 まして、坂本竜馬・中岡慎太郎・後藤象二郎等の有名人らが、足しげく通つていたなどと想像する人はもっと少ないと思うのだが、その可能性の確率は案外高いのである。
 「幕府は万延元年(一八六〇)九月、大坂湾岸防衛のため土佐藩に対し、中在家村・今在家村(粉浜村の旧名)錯雑地にー万七十九坪余(約三・三㌶)の土地を与え陣屋を構築させた。土佐藩では後藤象二郎を普請奉行に、職人をはじめ木材・石材等にいたるまで土佐から運び込み、文久元年(一八六一)五月完成させた。絵図面によると、陣屋は西側紀州街道沿いを正面に、東側(上町台地西崖)を除く三方面にほほ半周する形で堀を巡らせていた。
 正面の橋を渡った正門すぐに陣屋本殿、その東側に武芸所(文武館)、士大将・士分用宿舎は北側に間口三十五間の平屋建二棟を、郷士以下足軽宿舎は上町台地沿いに南北間口七十二間の二階建一棟、その他厩舎・火薬庫・射撃場・操練場などを備え、約三百人が常駐していた。任務の一端として、木津川口千本松付近から対岸にかけて鉄鎖をわたし、それを上げ下げして船の航行を制限するなど防備に努めたという」(住吉区史)

坂本・中岡・後藤のトリオ

 坂本竜馬は文久二年(一八六二)三月土佐を脱藩したのち諸国をまわり、中岡慎太郎と協力して薩長の接近をはかり、慶応二年(一八六八<ママ 正確には一八六六)一月、京都において西郷隆盛《さいごうたかもり》と桂《かつら》小五郎との会見を実現させ、薩長同盟という事業を成し遂げた。
 後藤象二郎は竜馬が脱藩の罪をおかしているが、今後土佐藩にとって重要な人物になるとの思いから、慶応三年(一八六七)四月、藩命により罪を許し、海援隊長に任命した。また、中岡慎太郎も同時に脱藩の罪を許され、陸援隊長となり海・陸双方から藩を応援することになった。
 坂本竜馬も当時「私一人にて五百人や七百人の人をひきいて天下のためをはかるより、土佐藩二十四万石を引きいて天下国家のためにつくす」といっているので、藩への復帰は矛盾のないところであった。

テロの嵐の犠牲に

 万延元年(一八六〇)三月の桜田門外の変以後、文久二年(ー八六二)四月に寺田屋の変、八月に生麦《なまむぎ》事件、十二月イギリス公使館焼き討ち事件などのテロ事件が続発、京都では京都守護職の配下であった近藤勇らの新撰組は、尊攘《そんじょう》派の志士たちをねらって、手当たり次第に斬り殺した。
 このように激動する情勢の最中に、大阪に新たに造られた、まるで城のような土佐藩住吉陣屋は、三百人の常駐体制といい、京都をにらんでのことであり、志士達が血相を変えてひんぱんに出入りしていた、とみるほうが自然ではないか。
 木津川口千本松付近は、当時は「天の橋立」と並び賞されるような、松の並木が連なる堤防が川の中程まであったから、対岸との間に鉄の鎖を張って、船の出入りをチェックしたとしても、三百人もいるはずはなかったと思われる。
 しかし、坂本・中岡共に慶応三年 (一八六九)<ママ、正確には一八六七>京都で暗殺された。

いま自由民権運動の流れは

 土佐藩は大政奉還《たいせいほうかん》という「無血革命」をなしとげることで、大きな役割を果たしたが、その後の明治新政権樹立では薩摩・長州に権力を独占されてしまった。薩長を中心とする藩閥専制《はんばつせんせい》に対立して、その後土佐で自由民権運動が進んでいった。
 土佐藩住吉陣屋跡の近くに住んでおられる、日本共産党元衆議院議員の正森成二さんが最も尊敬される方と常々云っておられた、高知県から一貫して衆議院に出ておられた、日本共産党の山原健二郎さんらにこそ土佐の坂本竜馬やその後の民権運動の伝統が引き継がれているのではないだろうか。
 土佐藩陣屋跡の真向かいに日本共産党の地区委員会の事務所がお世話になっているが、先の総選挙ではこの事務所から、小林みえこさんが出馬し、当選は逸したが好成績を得た。
 小林さんの演説はいつ聞いても力強く、心を打つものがある。歴史の歯車を大きく回すために共にがんばりたい。
 尚、後に陣屋は撤去されて主な建物は京都白川に移築、石垣は近くの生根神社の石垣に転用された。跡地は茶畑に、大正時代には草競馬場にも一時なったという。

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