今昔木津川物語(036)

◎ナニワ企業団地 (西成区南津守五)

 昭和五五年(ー九八〇)九月一七日、私は大阪府議会議員に三度目の挑戦で初当選したものの、府議の仕事についてもあまり知らないままに、府庁別館のせまい会議室での緊迫した交渉に参加し、脂汗の出る午後の時間を過ごしていた。

「西六社」と「木津川筋」

 大阪市此花区にある「西六社」とは、日立造船・汽車会社・大阪ガス・住友金属・住友化学・住友電線などの大工場群のことで、古くから西大阪での雇用の大拠点であった。
 一方、西成区と住之江区にかけてある、佐の安ドツク・名村造船・藤永田造船などの造船所群は「木津川筋」と呼ばれ、南大阪の雇用の一大基地であった。
 七〇年代に入って大阪の大企業は、より安い労働力と広い敷地を求めて、大阪からの脱出を図り始めた。いわゆる産業の空洞化である。当時大阪府も市も、企業の自由だとして、これを野放しにした。

庶民の力で夢の企業団地を

 そんなときに木津川地域六行政区の民主商工会は、造船所跡地を、住工混在で高い賃料、劣悪な現状の工場に悩む、中小零細企業の「理想の企業団地」にしようという、大変なことを決めて立ち上がった。
 九月一七日には、木津川の防潮堤の移設場所をめぐっての、大阪府都市河川課との最終的な交渉が行われていたのである。
 造船所の都合によって、今までは防潮堤は工場正門の道路に沿って造られていたのを、本来の川沿いに造り直さなければ、企業団地は「堤外地」になり、開発許可も困難だという思わぬ情勢になっていた。

団地建設途上最大の山場

 地主には、手付金として二億五千九百万円を入れてある。一三八社がそれぞれ都合してきた血の出るような金である。府の回答がもし「ノー」であれば、夢がつぶれるどころではない。組合員への融資の道は閉ざされ、土地取得は不可能となり手付金も没収されるという、極めて深刻な事態に追い込まれることになるの
である。

組合側の正論を認めた課長

 十人近い代表達はじっと丫課長の口元を見つめていた。云うべきことは全部云った。後は回答を待つのみである。やっと丫課長が重い口を開いた。「皆さんが借入金の中から、巨額の金を出して防潮堤移設費の一部を負担するという話に感銘し、私自身が数回上京し直接に国と協議をすすめた結果、その条件で国の事業として護岸整備をしたい……」
 答えは「イエス」であった。しかも、エリート官僚(丫課長はその後土木部長を経て副知事になつた)らしくない、情のある誠実な言動に、その場にいた全員が感動にふるえた。
 しかし、団地協同組合専務理事の中筋和夫氏は、もうひとつ難問題を抱えていた。彼は思い切って丫課長に云った。「実は工事完成を国の案では、八三年一月となっているが、それを八一年十月としていただきたい」今から一年間でやってほしいという、非常識なことは十分に承知の上での要請であった。
 それでも丫課長の決意は不動であった。府は直ちに国に再度はたらきかけるなどして、三日後の交涉では工期を八一年度にすることで合意した。

今では全国から視察に

 その後、ナニワ企業団地協同組合は南側の名村造船所跡地に第二団地を造成、現在二六〇余社が、深刻な不況の中でも団結を固め、受発注対策と企業団地のイメージアップを目指す「中小企業テクノフェア」「テクノピア」への継続的な出展へと発展している。

二〇周年記念誌を発行

 ナニワ企業団地協同組合は二〇〇〇年四月に創立二〇周年を記念して記念誌を発行した。組合設立以前から携わり、組合専務理事、副理事長として一九年間実践してきた中筋和夫氏が、一年数ヶ月かけた文字通りの労作である。この本は、何度読んでも、時には泣かされ、時にははらはらさせられる、そして人生を生き抜く不屈の勇気を与えてくれる不思議な本である。

「木津川筋」はものづくり

 さて「西六社」は今、大阪市の「集客都市づくり」のモデルになり生産点は半減され、「ユニバ—サル・スタジオ・ジャパン」という、アメリカ映画村に変身させられた。
 「木津川筋」は多くの先覚者達の奮闘により、今も多数の雇用を確保してきている。
 今府議会に太田知事は、法人府民税均等割の倍額という中小企業への増税案を持ち出してきた。自力でがんばるナニワ企業団地の人達にも、全てかぶさってくる。
 大阪の庶民の心を知らない者のなせる業で、同じエリ—卜官僚でも大きな違いがあるものだと思う。
 中小企業家のチャレンジ精神、リーダーの人間像、団結と交流、そして話せば通じる人の情けと誠。多くのことを教え続けてくれるナニワ企業団地である。

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