今昔木津川物語(037)

◎安倍晴明《あべのせいめい》神社 (阿倍野区元町五)

 平安時代という印象からこの辺りで連想される情景は、夕陽を浴びて上町台地の西端の熊野街道を南へ、左右にゆれながら進む、王朝貴族の熊野詣での華やかな行列のそれである。
 眼下には、鏡のように光り果てしなく広がる遠浅の海。その中に姿を現わす無数の島々。帆掛け船が細井川の河口に開けた墨江津の港に出入りしている。目をこらせば白砂青松の霰《あられ》松原も、住吉大社の森も見える。
 「これが天下の絶景勝間浦なのか」と、崖の上から身を乗り出すようにして見とれていた行列の一行も、再び動きだすと間もなく先頭が今夜の宿舎となる、阿倍野王子神社に到着した。
 やがて、空も海も茜色に染まり、巨大な太陽が西に沈むと、一瞬の間に情景は暗転する。ただ、王子神社の客殿だけが、明々と灯をともし、飽食した貴族たちが、供奉《くふ》の公卿《くぎょう》をよんで歌会に興じていた。

阿倍野で生まれた陰陽家

 神社の床下でそっと足を伸ばした従者の一人が、今日が出発であるこれから二十日間の旅路をあんじていると、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえた。
 従者は家に残してきた妻子の声かと、はっとしたが「空みみか」つぶやいて、荷物を枕にして、ごろりと横になった。
 延喜ニー年(九二一)の月日は不明。阿倍野王子神社北隣、大膳太夫安倍保名(やすな)の邸に一人の男児が誕生した。後の安倍晴明である。説話によれば母の名は葛葉《くずは》姫といい、その正体は保名が信太の森で命を助けた女狐であったという。
 安倍晴明とは平安中期の陰陽家(おんみょうか)、大文博士、主計|権《ごん》助などを歴任して、大膳|大夫《たいふ》・左京権大夫となる。極位は従四位下。加茂忠行・保徳父子を師として天文道・陰陽道を学び、天皇、貴族の陰陽道諸祭や占いに従事した。その超能力についての神秘的な伝説は、古くから各地で数多く伝えられている。

住民が自らつくった神社

 かつての安倍晴明邸跡に今、安倍晴明神社がある。
 阿倍野区史によれば「当社の創始年代また明らかでないが、治承《じしょう》年間(ーー七七)すでに神祠《しんし》があったことが旧記に見えている。のち、幾変遷《いくへんせん》を重ねて社殿も荒廃し、維新の頃僅かに小社祠と安倍晴明誕生地と刻した一碑が存在したのみであった。よって村民晴明講をつくり復興を府知事に嘆願したが、成就せず、大正十年一月保田伊之助一五〇坪他数十坪の敷地を寄付、漸く阿倍野王子神社飛境内社と公認の許可を得。大正十四年三月鎌倉時代の様式を則とした壮麗の社殿を竣工した。なお社宝として有名な葛之葉子別れの遺書並びに絹本設色の安倍晴明公画像がある」としている。

平安と似ている平成

 平安時代といえば何か王朝文化が繰り広げられ、源氏物語に見るような優雅な時代を想像してしまうが、それは極一部の貴族階級の中でのことで、実際は、度重なる疫病の流行や地震・雷・大火・洪水、旱魅《かんばつ》などに苦しみ、一方、支配階級は自らの行状からくる、怨霊《おんりょう》の祟りに怯え続けていた暗黒の時代でもあった。
 そこでそれらの災厄から逃れるために、陰陽道が発達した。
 当時は陰陽寮という名の役所が、宮内省や兵部省と共に国の重要機関として存在し、情報省的役割を果たしていた訳で、いま国会で問題になっている「乱脈機密費」の元祖だったかもしれない。
 しかし、安倍晴明は単なる「権力の手先」ではなかったようで、それは晴明ゆかりの神社・お寺が全国各地に数十も存在し、その他晴明が関係した橋・井戸などもいたるところにあり、今も人に語り継がれていることからみても云えると思う。
 いずれにしても、われらが地元の晴明神社は、陰陽道ブームが来ようが去ろうが関係なく、「恋しくば訪ね来てみよ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉」で有名な「葛之葉子別れ」の伝説一筋に、都会の中の静寂を保ってくれている事に心から感謝したい。

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