◎生国魂《いくたま》神社(天王寺区生玉町)
生国魂神社々伝によれば「第一代|神武《じんむ》天皇御東征に際し、上町台地の北端である『難波之𥔎《なにわのさき》』に大八州の神霊として生国魂大神を鎮祭された」となっている。
元は石山本願寺の隣りに
明応《めいおう》五年(一四九六)、蓮如《れんにょ》上人が「石山本願寺」を、生国魂神社の隣接地に建立する。「石山御坊」とも称した石山本願寺は、やがて本願寺教団の拠点となり、織田信長との「石山合戦」を十年近く行なうが、天正八年(一五八〇) 信長の攻略に屈し、要塞堅固・荘厳《そうごん》美麗《びれい》とうたわれた本願寺は灰燼《は<ママ か?>いじん》に帰した。
信長亡き後、豊臣秀吉は石山本願寺の跡に難攻不落《なんこうふらく》の大阪城を築く。天正《てんしょう》十ー年より築城に入るが、 まず城域内に含まれる生国魂神社を現在地に移し、社領三百石を寄進して社殿を造り替えた。天正十三年九月九日に遷座《せんざ》奉祝祭が行われ、以後九月九日は生国魂神社の例祭日となった。
その後、社殿は元和六年(一六一五)の兵火、明治四十五年の「南地の大火」昭和二十年三月の戦火と再三罹災に会うがそのつど復興してきている。
異様な感じの「生国魂造」
生国魂神社の本殿は「生国魂造」と称する。他に例を見ない建築様式であり、現在の本殿も、往時の規模を踏襲《とうしゅう》して建てられたものである。すなわち、五間四面棟高六十尺の本殿と七間四面の幣殿の屋根は一つの流造で葺きおろし、正面の屋根に千鳥破風・すがり唐破風・さらに千鳥破風の三破風を据えたもので、天正年間の豪壮な桃山文化の遺構を伝えたものとされている。
私は先日、つくづくとその本殿を見上げて「出雲大社と感じが似ている」と思わずつぶやいたのだが、住吉大社や他の氏神さんとも違う、むしろ異様な建物を見たというふうであった。
高さを誇っているようでもあるが、何か近寄りがたい。権威ではなく不思議な恐れさえ感じられたのである。
「大物主」とオオクニヌシ
その理由は、祭神について調べることで判明した。
生国魂神社の祭神は、生島・出島神二座を主神とするが、相殿神として「大物主神」を祀っているのである。
生島神、足島神とは「大八州の霊」であり、日本列島全体の国魂ということになる。国魂とは、古代人がそれぞれの地域に存在したとみなした神霊のことである。
一方、それに対して、「大物主神」とは、大和三輪に祀られている神だが、いまの神道では出雲のオオクニヌシと同一人物とさている。なぜ出雲の神を大和で祀らなければならないか、という疑問に対して梅原猛氏は、もともと大和三輪の先住民であった大物主が、大和朝廷に敗北して「国譲り」をしたあと、出雲に流され祀られるようになったと述べている。大和朝廷は大物主の怨霊によるタタリを恐れて「大きな神殿(出雲大社)を建て丁重に祀った」ということになるのではないだろうか。
生国魂神社にもし最初から「大物主神」が祀られていたとすれば、同神社建立の目的は、大物主の怨霊の大和への帰国阻止にあったと思われる。
小泉首相の靖国神社参拝
時の権力者が、ライバルを無実の罪に陥れ、そのタタリを恐れて神社・仏閣を建立した例は、日本の歴史では結構多い。天満宮しかり、奈良の大仏もそう云われている。そしてその効果はほとんどなかったというのも、歴史の回答である。
小泉首相の靖国神社公式参拝も結局は、東条英機などのA級戦犯への参拝であったという歴史の回答は、もうすでに出されている。
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