◎西本願寺、東本願寺
京都駅に近づくと、東西二つの本願寺の豪壮な甍《いらか》が目にとまる。どうして東西二つの本願寺が並んで建てられたのだろう。
市に<ママ 京都市の?>本願寺は、浄土真宗の開祖親鸞の子、覚信尼が文永九年(ーニ七二)に東大谷にその廟を祀ったところがはじまりだが、織田信長にとって、一向一揆などで実力のほどを示した本願寺門徒は目の上のたんこぶ。大阪石山の本願寺にたてこもる門徒を攻画<ママ 攻略?>したが、なかなか落ちず、天正八年(一五八〇)に正親町天皇の勅裁によって時の法王、顕如とやっと和解した。ところがその長男、教如はこえ<ママ これ?>に同意せず、そこで顕如上人は義絶した。
本能寺の変によって、天下は秀吉のものとなった。天正十九年(一五九一)に顕如が秀吉に請願し、京都七条堀川に十万余坪の土地の寄進をうけて建ったのが西本願寺である。
顕如の子、教如が父から義絶されて以来不遇をかこち、自ら隠退していたが、慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の合戦で豊臣方が敗退し徳川家康の天下になると、大津に家康を迎えその苦衰を訴えたので、後陽成天皇の勅裁を得て慶長七年に京都烏丸に土地を寄進され、ここに東本願寺を建てた。
「それぞれお家の事情があったのね」と友子。
「家康の本願寺派の勢力分断策もあったと言われている」と次郎。
大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年7月号
(新刊本未収載)
“がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第50回” への1件の返信