◎天保山 (港区築港三—二)
琵琶湖の水は、瀬田川・宇治川・淀川・大川と名称を変え、中之島で堂島川・土佐堀川の二川にわかれて流れ、流末は安治川・尻無川・木津川の三川となり大阪湾に注ぐ。
文政十三年(ー八三一)自普請による瀬田川浚が湖辺村々から出願され、これに対し幕府は淀川中下流の村々に、このたびの浚は付州の上部を浚えるだけであって、下流の水嵩が増す心配はないと説得し、承諾させている。
町人が負担金の免除を要求
同年十月、大阪三郷の町々に差し支える有無を糺《ただ》した。各町でこれを検討した結果、大勢としては条件付き承認という線でまとまった。その内容は、つまり瀬田川浚には反対だが、浚を強行するのであれば、今後年間九九五〇両の川浚冥加金は免除してほしいということである。そのかわり川々の浚は自分達で行うという。大阪三郷の町々ではこれを好機に、川浚冥加金《かわざらえ》免除《めんじょ》を実現しようとしたと見ることが出来る。
大阪奉行所では検討の結果、瀬田川浚の有無及び三郷町々の嘆訴に関係なく、現在淀川筋から安治川・木津川両川口の御救大浚と川堤|嵩《かさ》上などの普請の実施を計画中である。名案のある者は早々に建言せよと、幕府の面目を示す口達《こうたつ》をしている。
しかし、結局はその費用は、奉行所が銀六〇〇貫目(約ー万両)に対し、三郷町人・株仲間・摂津国村々からの手伝上納金二三五七貫三三三久によってまかなわれた。それ以外にも、島ノ内四〇町が、杭木・竹・縄・人足などを差し出している。
天保二年(ー八三一)三月八日の安治川浚を皮切りに、六月十三日には淀川、神崎川、中津川国役堤普請が、翌三月中旬には木津川口浚が始まった。
千本松と天保山が両川口に
このときの木津川の浚土砂によって、木津川口の石波戸、石垣堤、土手堤杭普請が行われた。その位置は現在の千本松大橋東詰あたりから、約ー・七キ口下の現在の住之江区木津川渡船場の辺りまで、川の中程に突き出たかたちでつくられた。その堤防上に植えられたのが千本松で、西からの潮風のためそなれ松になっていたが、樹間がわりあい広く、天橋立のようにつながっていなかった。
その先端には木造灯台が建てられ、新名所として多くの人が遊んだという。残念なことに、大正五年(ー九一六)に第一次大戦の好況による大小の造船所の乱立により、 跡形もなくつぶされてしまった。
また同じときに安治川の浚土砂によつて安治川口に目印山(後に天保山と呼ばれるようになる)築立、石垣堤杭普請が行われた。当時は二〇㍍の小山となり桜や松が植えられ「浪華の新名所」としてたいへん賑わいをみせたという。現在の天保山は海抜四・五㍍の日本一低い山(国土地理院の三角点による)として有名である。
幕府に実力が失われ、町人を抑えることができなくなってきた時代に、 千本松石波戸や天保山がつくられていたことになる。
四年後には天保の大飢饉(天保七年)その翌年には大塩平八郎の乱が起こる。
港区での町名の由来
(波除)現在の安治川大橋の南詰付近には、明治時代まで波除山という人工山があった。貞享元年(一六八四)河村瑞賢が淀川を直進させる工事で新川(現在の安治川)を掘ったが、その時の土砂を積み上げたもので、航海の目印や行楽地として親しまれていた小山である。大正末期には開発のため完全に姿を消した。
(市岡)元禄十一年(一六九八)伊勢の豪商、市岡与左右衛門宗栄が開いた新田から。
(弁天)市岡新田の会所に祭って信仰を集めていた弁財天からこの名が生まれたという。
(福崎)天保六年(ー八三五)福崎孫四郎が開いた新田から。
(八幡屋)文政十一年(ー八二八)八幡屋忠兵衛が開いた新田から。
(田中)安永五年(一七七六)田中又兵衛が開いた新田から。
(港晴)昭和四十三年区画整理によって付けられた。
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