◎西区の埋もれた堀と川
天正十一年(一五八三)四月、豊臣秀吉が大阪城を築きはじめ、城下町の建設に着手したことから、西区は次第に開けてきた。慶長六年(一五九六)には西横堀川が開削され、つづいて阿波堀川も通じた。道頓堀川も元和元年(一六一五)には完成した。
大阪夏の陣の後、大阪城代に任じられた松平忠明によって、元和三年には土佐堀川の南に江戸堀川、さらにその南に平行して京町堀川も開通した。
寛永元年(一六二四)には、靱・天満の塩魚商人らは幕府の許可を得て、阿波堀川と京町堀川に通ずる海部堀川を開削、翌寛永二年には長堀川が、同三年には阿波堀川と西長堀川の間に立売堀川が、同七年には薩摩堀川がそれぞれ完成している。
元禄十一年(一六九八)には、開発のおくれていた長堀川と道頓堀川の中央東西に、堀江川ができた。
このようにして西区の地域一帯は開けていったが、堀川の沿岸には二十五藩もの蔵屋敷が設置され、「天下の台所大阪」を支えていた。
小西来山が「すずしさに四橋をよつわたりけり」とよんだのは、旧長堀川・西横堀川に架かっていた炭屋橋・古野屋橋・上繫橋・下繫橋の総称で、四つの橋が東西南北に交差する二つの川に井桁状に架かっている面白さから、浪花の名物であった。天保八年(ー八三七)幕吏に追われた大塩兵八郎父子が、船で逃走中に四つ橋の下で刀を河中に投げ捨てた話は有名である。
やがて時代の波が
江戸時代から長く地域の交通を支え、水の都の基盤となっていた西区のこれらの堀川も、市電・市バス・地下鉄などの普及と、自動車の急増により、昭和二十六年頃から埋め立てられ、昭和四十八年の旧長堀川を最後としてほとんど姿を消してしまった。
十二の堀川と百十二の橋も運命を共にした。
大阪大空襲でほぼ全滅
西区の街の姿は、昭和二十年三月の大阪大空襲で区内がほぼ全滅したことと、戦後の堀川の埋め立てにより大きく変わった。昔の面影を止めているのは、土佐稲荷神社とあみだ池、川口キリスト教会堂と、九条新道商店街西側の路地ぐらいである。
しかしいずれにしても、この地が過去数百年にわたり、大阪の経済、文化、ものづくりの中心であり、わが木津川のス夕—卜地点であるということを、多くの人に知ってもらいたい。
休日ともなれば、静かな高層ビルとマンションのこの街に、かって人々のエネルギーが激しくもえさかえていたということを。
西区での町名の由来
靱(うつほ)
靱という名の由来は、豊臣秀吉がある日、お供を従えて市中巡視をした際、町で魚商人たちが「やすい、やすい」と威勢のよい掛け声で魚を売っているのを耳にして「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)のことじゃ」といったので、その言葉にあやかって「靱」という町名が付けられたという。
京町堀(きょうまちほり)
大阪冬の陣・夏の陣後、大阪城主松平忠明の人口来住政策に呼応して、伏見京町から移住してきた町人らが開発した町域であることに由来する。
土佐堀(とさほり)
町域が大川の分流である土佐堀川左岸に沿って位置することに由来する。
この付近は、豊臣期に土佐商人の群居した「土佐座」の地といわれ、これによつて河川名を「土佐堀川」と名付けたと伝えられる。
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