◎土佐稲荷神社 (西区北堀江四—九)
土佐稲荷神社は、地下鉄長堀鶴見緑地線西長堀駅下車すぐのところに、高層ビルに囲まれてはいるが、結構広い敷地の中に、社殿や鳥居や灯籠が、ぽつんぽつんとまくばられているようにして建っ ている。ずいぶんぜいたくな神社だなあというのが第一印象だ。近づいてみると、児童公園が隣接していて、その分余分に広く見えるのである。
しかし、上町台地の端にそびえるように建てられていたり、それぞれ樹齢何百年という巨木にかこまれて森のようになっている、今までの神社・仏閣を見てきた目には、やはり少し物足りない。そのわけは、「西区の史跡案内」に「境内は江戸時代から桜の名所として知られ嘉永四年(一八五ー)に建立された其角の『明星や桜定めぬ山かつら』の句碑がある。社殿及び桜の古木は、太平洋戦争中の空襲で焼失したが、社殿も復興し戦後植えた桜の若木も成長して、夜桜の花見が復活した。また、境内には昭和三十二年西区遺族会が建立した『祈(戦没者慰霊塔)』の像と、四十二年十月『祈』像の十周年記念の時に建てられた石碑がある」との説明がある。
土佐高知藩蔵屋敷内鎮守社
土佐稲荷神社は明和七年(一七七〇)山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請《かんじょう》したと伝え、一般の参拝を許したともいう。
この神社は、明治維新前にある悲惨な事件に出くわしている。
慶応四年(ー八六二)二月十五日、堺事件とよばれる不幸な事件が起こった。
そのころ、大阪の海岸地帯には、土佐(高知)・因幡《いなば》(鳥取)・備前(岡山)などの藩兵が幕府の命により警備についていた。土佐の警備隊は中老山内右近を総指揮に、三百人が派遣され、住吉の紀州街道に面した広大な土地(現在の東粉浜小学校一円)に、堀をめぐらせた二階建の陣屋を新築し、オランダから買い入れたケーベル銃二百と大砲数門もそろえた。同時に木津川河口の守備も受け持たされたので、流れに数十本の丸太を打ち込み、クサリを張り大砲をすえた。
フランス兵らが突然に上陸
土佐の六番隊と八番隊は堺地区を巡察する任務を与えられ、兵士は筒袖の上着に下がズボン、腰に一刀をさし右手に銃をという和洋折衷の服装であった。
不祥事件の起きたのは二月十五日、午後四時頃。この日堺沖に停泊したフランス軍艦ヂュプレー号から約二十人の水兵がボートで海岸に近付き、そのまま上陸をはじめた。フランスの水兵たちは町の中を歩きまわり、泥靴で神社や民家に上がり込んだり、女性の姿を見ると奇声を上げるなどの態度に出た。「赤毛のやつらが押し寄せてきた」「女はさらわれるぞ」と住民はあわてて戸を閉めてふるえあがった。
知らせを聞いて六番隊と八番隊はいきせききって現場へ急行した。兵が二十八人、足軽十数人、トビの者が十人ほど加わった。
フランス兵達は隊員のけわしい形相《ぎょうそう》を見ると、手を振りきって、一斉にボートをめざして逃げ出した。士官が一人土左藩の軍旗を抜き去ったので、足を止めていた巡察隊が追い付いて奪い返した。土佐藩の中からおどしの短銃が放たれた。それをきっかけに、巡察隊の両隊長は「うてうて」とどなった。
一発の銃声が大事件に発展
フランス兵のボートは銃砲の乱射を浴びて大混乱を呈した。これによりフランス側は銃死二人、、<ママ>水死七人をかぞえ、死者のうち二人の士官がいた。
外国兵十六人を死傷したことは、わが国ではかつてない大事件であった。和親外交をとなえたばかりの政府は「朝廷の興廃ににかかわる危急の大事件」と緊張しきった。土佐の前藩主と藩主は、さっそく軍艦ヂュブレ—号をおとずれてわびを入れる一方、政府側が先方の要求を全面的に受け入れたことを、苦悩の末に承認した。
フランス側の要求は「三日以内に土佐兵の下手人全員を暴行の場所で双方立合のもとに処刑すること。遭難した士官・水兵の家族に扶助料十五万ドルを支払うこと。日本大官の謝罪。土佐藩の堺警備の禁止」などであった。
稲荷神社で「死のクジを」
下手人の二十人は二十三日、堺の妙国寺で処断することに取り決められた。前日、両隊員は藩邸内の稲荷神社に参集を求められ、大監察の前に進んで死者を決めるクジを引いた。両隊長、両小頭を別に両隊から六人づつが犠牲者と決まった。名物の桜の開花にはまだまだであった。
二月二十三日、土佐藩士二十人は、替わって警備についた肥後(熊本)・安芸
(広島)両藩士に守られてカゴで紀州街道を堺に向かった。カゴのすだれは上げられていた。
妙国寺での割腹の場は酸鼻《さんび》をきわめた。十一人の自害が終わったとき、フランス人たちは席を立って幕の外に出た。彼らは「残る者の処刑は中止するように」とあえぐように告げてその場を去った。
土佐藩赤字対策に岩崎起用
土佐藩は、坂本竜馬らの活躍により大政奉還の目的達成という大事業をなしとげたが、幕末には国防や戊辰戦争、堺事件の賠償金などのため多くの経費を必要とし、藩財政は大赤字であった。殖産興業のため起用されたのが、藩直営の商社の下役をしていた岩崎弥太郎であった。彼は後に藩の商社を私の企業にクルリと変え、明治六年に「三菱商会」とした。土佐の後藤、薩摩の大久保などに押され
て海運業に乗り出し、西南戦争では平たん輸送を一手に引き受けて大儲けし、海運業界の覇者となり、その後も政府からさらに無償融資やタダ同然の払下で肥っていく。
弥太郎に払い下げられたものは、「三菱造船所」となり、薩摩出身の川崎に払い下げられたものは神戸を代表する「川崎造船所」になった。いずれも藩閥政治の手厚い保護で生まれ、後に日本帝国の大陸侵略を後押しする、独占大企業に成長した。
土佐稲荷神社の比較的新しい玉垣は、三菱銀行・三菱商事を筆頭にして、現在の三菱グループに属す各業界の大企業の社名が誇らしげに連なって、社殿の後方を守っている。
土佐稲荷神社の見てきたものは、必ずしも「死のクジ」だけではなさそうである。
“今昔木津川物語(046)” への1件の返信