今昔木津川物語(050)

◎「長崎橋」の”なぞ“を解く(西成区玉出西一ー 一七)

 安治川を開削した河村瑞賢は、元禄十一年(一六九八)に再度来阪し、木津川より分岐し南へ向かい堺の北で海に注ぐ、長さ四十四町(約四・八㌔)、幅十三間(約二十三・七㍍)の十三間堀川の設計を行なった。
 十三間堀川の名はその川幅が十三間あったからだと伝えられているが、古文書によれば幅十間とある。津守新田開発を控え、かんがいと舟運の便の為だけでなく、掘り出された土は新田づくりに有効に使われたにちがいない。

十三間堀川は元観光の名所

 十三間堀川は明治の初めころまでは、両岸に松の並木や揚柳があって、たいへん風情に富んだ観光地だった。住吉詣での屋形船が、三弦に盃をめぐらす遊客を乗せてひんぱんに往来し、橋詰には蛤汁を吸わせる茶店もあった。
 しかし戦後は、沿岸一帯の市街地化、工場排水のたれ流し、ゴミの不法投棄などによって、悪臭を放つドブ川と化していた。世間は自動車時代に、全市的に多くの運河は埋め立てられ、大半は自動車の高速道路になった。十三間堀川の場合は万国博に合わせて、阪神高速道路大阪堺線が埋立て跡を利用して、堺市翁橋町に至ることとなり昭和四十四年(ー九六九)三月にその開通をみた。これで地元の地主達が費用を出し合ってつくった十三間堀川は、木津川地域の発展にさまざまに貢献しながら、二七〇年の歴史の幕を下ろした。

橋の名から幕末の歴史が

 さて、十三間堀川にはもちろん多くの橋がかけられていた。西成区内だけで一三ヶ所もあったが、その中で橋の名前の由来が不明なものがいくつかあった。その一つに、玉出本通りからまっすぐ西へ行き、そのまま川を渡って南津守に達する「長崎橋」というのがあった。
 西成区役所主催の座談会「津守を守る会」の記録によれば、地元の方は「幕末に黒船が大阪にやってきて大騒動になり、幕府は安治川・木津川両川口に大砲を据えて防衛することになった。木津川は千本松のところに砲台をつくるのだが、紀州街道の方から大砲を運びこむとして、十三間堀川には大砲を渡らせるような丈夫な橋はない。あるのはせいぜい人が荷物を担いで渡るだけの幅㍍もないような木造の橋である。そこで幕府が、今後はつくらんがこの橋だけは特別だ、と言って造った橋がこの長崎橋だ」と述べているが、その前例のない鉄橋の名がなぜ『長崎』かということについては、残念ながら聞けていない。

先人のメッセ—ジが郷土史

 そこで私は、先日たまたま松本清張の小説「天保図録」を読んでいて知ったことだが、ペリ—来航時の嘉永六年(ー八五三)頃、江戸の江川太郎左右衛門と共に国防の第一線で活躍したのが、長崎の鉄砲方の家に生まれ、その職を世襲した砲術家高島秋帆で、幕末の砲術家の大半は彼の影響を受けたといわれる、という歴史の事実である。
 ここで私は推理するのだが、千本松に据えられた大砲は長崎から運ばれてきたのか、砲台づくりをまかされた高松藩の砲術家が高島秋帆の弟子で、師に敬意を表したか、それとも彼自身が長崎出身であったのではないかということである。
 郷土史には、お国自慢的な、独り善がりのものが中にはある。しかし「史」というからは地方史、中央史との関連で考えなければならない。そうすることによって、実は長年不明であったという謎も、 解明されてくるのではないか。「逆説郷土史」も面白い。

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