今昔木津川物語(057)

◎波切不動尊 (西成区聖天下ー 一六)

 聖天下一丁目にある波切不動尊は、水かけ不動明王とも呼ばれている。昭和十四年七月十日、現在の北津守地区で発掘され、大きさは四尺七寸、同年西宝寺のそばに祭られた。

戦時中は空襲の難のがれに

 戦時中数度の空襲で周囲は焼失したが、不動明王は難を免れたことなどから日ごと信者が増え、不動さんは願いをこめてかけられた水で黒びかりしている。
 今から三百年程前までは海中であり、その後津守新田として造成された土地から、こんなに立派な仏像がどうして掘り出されてきたのかという、歴史の謎が浮かび上がってくる。

信長鉄砲を受け命からがら

 考えられることの一つは天正年間 (一五七二)、本願寺門徒が織田信長と戦った際、当時石山本願寺は毛利氏と結び毛利の兵船八百艘に糧粟二万俵を積んで木津川に入らんとし九鬼嘉隆らが兵船三百余艘でこれを遮り、石山方は木津・桜の岸などの諸塞兵を出してはげしく戦い、遂に石山軍勢が勝ちを制して糧食を石山城に入れた。当時、信長は足に鉄砲を受け、必死になって現在の出城通りから天王寺に逃げ帰っている。

老若男女決死のたたかいを

 このときに、石山方は木津川河口にありて、海上との連絡をとらんがために木津砦を設けている。四方八町の砦には本願寺木津総門の老若男女が各我家を棄て籠城し、中に高櫓をたて見張りをしたが、その石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き抜いてきたものであったという。しかして、その地より今も墓石を掘り出すことありと云えば、飛田墓地より運び来りて石垣に利用せしものたらん、とその後永らく伝えられてきている。
 織田信長は大阪にとってはまったくの侵略者であった。
 鬼のごとき信長とたたかうために、わらをもすがるおもいで、飛田墓地から不動明王を持ち出したのかもしれない。それがその後の新田づくりで地中に埋もれて、四百年後に台風で姿を現してきたとか…。

市場・商店街と四方さん

 日本共産党の大阪市会議員を西成区で五期二十年間つとめた四方棄五郎氏は、選挙戦の打ち上げの演説会をいつも地元の波切不動明王横の西宝寺をかりておこ
なったが、聴衆には市場・商店街の人が多かった。
 四方さんはつねに市場・商店街がさびれるということは、街から活気と人情と文化がなくなっていくことだと、大スーパーの横暴をきびしく批判していた。

ス—パ—と小泉で大被害が

 その四方さんが永眠されて早六年。今年の九月十一日が七回忌だという。この間に西成区には大スーパーが次々に進出し、 地元の市場,商店街にははかり知れない打撃を与えた。これに追い打ちをかけたのが「小泉不況」の襲来。
 「構造改革なくして景気の回復はなし」とお題目のように同じ言葉をくりかえし、批判は一切許さない。というのであれば、信長流独裁者としかいいようがない。四方さんが愛した市場や商店街は今やシャッ夕—通りと化し、貸し店舗の看板だけが寒風に揺れているのである。

波切さんに悪政除けを願う

 悪政の被害を全国一こうむっているのが大阪だとすれば、わが西成の景気は全国一深刻だという事になりかねない。今度は波切不動尊に「悪政除け」になってもらって、そして願いだけでなく、被害者は全員立ち上がってたたかおうではないか。四方さんどうか見守っていてください。

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