◎法住寺ー大石内蔵助も詣った身代不動尊
京都は三十三間堂の東にある法住寺は、後白河法皇の院政の舞台「法住殿」の後に建てられた。本尊は身代不動尊。討ち入り前の大石内蔵助も参拝したという。
「身代わり」とは後白河法皇が法住殿に住んでいた時、木曽の義仲が院の御所に攻め入り、あやうかったところを当時の天台蔵王、明雲大僧正が身代わりとなって、後白河法皇は難を逃れることができた」と伝えられていることによる。
「山科に身をひそめて、江戸の吉良邸への討ち入りを計画していた内蔵助が、わざわざ一体何を…。友ちやんはどう思う」と次郎。「やはり、自分らに代わって吉良をこらしめてほしいと、率直にお願いしたのではないの」
「天災もあれば急病もあるしね。内蔵助は仇討決行による悲惨な結末を予想して万が一の身代わりをすがったのか…」
赤穂浪士が吉良邸へ討ち入ったのは、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の深夜、世間に悟られないよう、バラバラの服装でバラバラに集まってきて、表門と裏門に分かれて侵入。時代劇にあるような、かっこうのいいものではなかったのです。
「戦争中に小学校で忠臣蔵が戦意高揚に使われて、四十七士の名前の暗記などやらされた」「学童疎開や空襲、もう絶対いやね」