今昔西成百景(007)

◎由緒ある西成区名

 私は現在手元に、「西成郡史」「西成区史」という二冊の郷土史の本をもち、それを参考にして、行政から見た歴 史ではなく、庶民の歩みを少しでも追っ ていきたいという立場から、敢えて予断の謗りをおそれず、筆を進めている。一二九一頁もある大正九年編纂の「西成郡史」をひもとき、まず最初に不思議に思うことは、西成郡の北の部分は淀川を挟んで現在の西淀川区・淀川区・東淀川 区・北区・此花区・福島区に当たり、次に大阪市の東区・西区・南区・北区の全 四区を飛び越えて、現在の西成区と住之 江区の一部が西成郡の南の部分に成って居ることだ。西成郡の多数派は決して西成区では無かった訳である。それでは、一体どうして少数派であった南部が西成という名を引き継いだのか。
 大阪市は大正時代に至って第一次世界 大戦の勃発等から経済界は空前の活況を呈し、その工業生産はわが国第一位となり、海運に於いても神戸・横浜をはるかにしのぐという有様で、大正十三年には すでにその人ロ一四三万人を突破し、接続町村も非常な勢いで増加した。そこで 当時の関市長は将来の都市計画の立場か ら、内務省が淀川以北はなかなか認めなかったが、遂に東成・西成の両郡四四ヶ町村の一挙編入を実現した。

歴史と伝統のある町

 大阪市は新編入四四ヶ町村を、五区の 行政区画に分けることにした。今宮町、玉出町、津守村、粉浜村の四ヶ町村で府 が市会に諮問の際は住之江区であったが、第三区の原案城東区が旧郡名東成を残して東成区と改められたため、市会答申で西成郡の区名も残すべきであるとして、西成区の名となり、これが最終的に決定されたのである。
 「西成区史」は「元来東成・西成の郡名は、奈良時代の元明天皇の和銅六年(七一三年)郡郷の名は好字で表しかつ二字を用うべしとされたことによって、それ迄の難波大郡・難波小郡がそれぞれ 東成(東生)西成の郡名に改められたものである。そしてその際の境界はおおむね上町台地の屋稜線であった。しかし当時の西成郡は小郡の名が示す様に、その区域未だ小であったが、年月が経るに従い陸地造成並ぴに市街地の形成は屋稜線の東側より甚だしく、今日の大阪市の殆ど全区がこの地域に発達した。従って西成郡の区域としては必ずしも現在の西成区域にとどまらなかったが、大正十四年の大阪市編入当時、北部の西成郡諸町村が、東淀川・西淀川に分割され、南部の諸町村においてこの由緒ある西成の名を残すべしとされたためである」と記している。

極楽区

 好字とは、めでたい文字の事であるが、「西成」とは、どこがどうめでたいのか。東成は、太陽に向かって実がなる、という事であれば、西成は矢張り、西方浄土を指しているのであろう。極楽浄土を区名にしている所は、全国でも例がないのではないか。因みに元明天皇は女帝、この時代全国で国分寺が建てられたが、農民は人夫として強制的にかりだされた。
 今大阪市は、日本共産党以外の自社公民オール与党体制の長期化で完全になれあっている。去る九月十八日、大西総務局長は次期市長選で現市長の後継者当選の為に、「選挙違反ぎりぎりまで、あるいは勇み足も有ろうかと思いますが、全力を尽くしたい」と事実上「市役所ぐるみ選挙」を指示する発言を行なった。その場に同席していた西尾市長はあとで 「私も同感」「今度はまだおとなしかっ た」などと居直っている。今年は西成区区政七十年、区の行事が「市役所ぐるみ選挙」で汚されないよう、全市民的な監視を強めなければならない。
(一九九五.一〇)

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南大阪歴史往来(002)

◎大和川の川違《たが》え(その二)

 川違え賛成派は河内・讃良・茨田・若江・渋川の農民たち。反対派は舟橋・太田・若林・瓜破・木本・淺香山・住道・植木等新川予定筋の農民と大和川、石川筋で舟運にたずさわる二百十一隻の船仲間とその問屋筋である。

万年代官が甚兵衛と現地へ

 後世「人情代官」と呼ばれた万年長十郎は、うずたかく積まれた請願書の中から幾通もの川違え関係を発見し、さっそく甚兵衛らを呼び出してくわしく聞いた。その後代官は甚兵衛と共に大和川筋を新川予定地も含めて再三視察した。反対派は田地が川底になる地域の総代庄屋西村市郎右衛門をせきたてて、奉行所への強い交渉を求めた。
 元禄十四年(一七〇一)二月、万年長十郎は甚兵衛を伴なって江戸表へ旅立った。これまでも再三、老中まで甚兵衛らの請願を取次ぎ、自分からも意見書を送り川違え促進を努めてきたが、今度は老中と直談判してでも決定させようという決心からだった。
 二月末江戸に着いたが、勅使下向で幕府は忙しくその上三月には赤穂の殿様の殿中での刃傷事件で、川違えどころではなくなっていた。

幕府川違え決定反対派敗北

 甚兵衛は江戸で万年長十郎からの連絡を待って二年目に入った。その間に大和川の堤防決壊、河内またもや大洪水の報が届いた。これでは年貢米も取れない。ここにきて幕府はやっと大和川の川違えを決定した。世間では赤穂浪士の吉良邸討入り、その後の四十七人の全員切腹などがさわがれていた。
 元禄十五年十一月、反対派の総代庄屋西村市郎右衛門は奉行所に呼ばれ、かねてより提出していた川違え反対の請願書が全て返された。

姫路藩に工事の金も人も

 元禄十六年十月二十八日、大和川川違え工事の人事が現地に正式に伝えられた。大目付大隅守忠香、小姓組伏見主水為信、大阪奉行所代官万年長十郎、以上三名を普請奉行に、姫路藩主本多中務大輔忠国を国役お手伝いとしてであった。
国役とは、江戸時代に幕府が諸大名の財政力を弱化させると共に忠誠心を示させ、あわよくば取りつぶしの口実を見付ける一種の謀略で、そのうち最も重要なものが河川の治水工事で、国役普請とよばれた。
 大和川川違え工事費の総額七万一千五百三両の内、幕府が出すのは三万七千五百三両で、残りの三万四千両を姫路藩が支出するのだが、実際はもっと多額の金が必要であった。幕府は工事完了後に、新田の権利金としてその何倍もの金が入ってくるし、その上今後の年貢米の増収を考えると、全く笑いが止まらない。しかも諸大名の力を弱めることができる。万年長十郎らもその利点を大老らに十分て説得したことであろう。

藩主急逝し藩の危機を救う

 一方、姫路藩にしてみればまさに寝耳に水で、何の関係もない他国の河川修理に藩命をかけさせられる。大変な貧乏くじを引いたものである。
 藩主忠国は国家老と共に先ず大阪の豪商で後に旧大和川跡地の新田で最大の地主になり大儲けする鴻池家に多額の借金をして工事を始めた。藩主政武は名も忠国と改めて、この重責を全うし藩の危機を救わんと陣頭指揮をとるも、姫路藩に割り当てられたところは浅香山の丘陵地で、堅い岩盤を打ち砕いて進む最大の難所、後世の人のいわく「浅香の千両曲がり」であったのだ。有効な道具や機械のないままに工事が遅れてくる。気疲れからか藩主忠国が病に倒れ三月下旬に急逝してしまうのである。二月十五日からエ事が始まったばかりであるのに、余程の無理難題を幕府から押しつけられていたのであろう。しかし、この藩主の突然の死によって、結果として姫路藩は救われたことになるわけで、自刃説も出たところである。
 幕府では改めて国役工事の大名を追加した。岸和田藩主岡部美濃守宣就・三田藩主九鬼長門守隆雄・明石藩主松平佐平衛直常・姫路藩主本多忠孝。計七十九丁(約九㌔)の再分担を藩主の死亡とはいえ幕府がよくやってくれたことだ。当時の権力者柳沢吉保に姫路藩から大金が運ばれたのではないかと、様々な噂がながれたという。
 新大和川は淺香山丘陵などの難所以外は掘らずに堤防を積み上げていくやり方をとっので、工事は工期八か月という早さで完了した。宝永元年(一七〇四)十月十三日式典後新大和川に通水した。

明暗分けた義民

 数年たったある旱魃の年のこと。今までの川が新大和川で切断され一滴の水も流れてこない地域が出てきた。総代庄屋西村市郎右衛門らは、毎日のように代官所や奉行所へ新大和川の堤防より水を引いてくれるように嘆願したが許してもらえなかった。ついに西村市郎衛門は近郷二十数ヵ所所の庄屋と相談の上、自分ー人が責任を負って、新大和川に水門を掘って水を引き入れた。稲田は正気をとりもどしたが、市郎右衛門は捕らえられ大坂城内で処刑され家族は離散した。
 万年長十郎は異例の抜擢を受け堤奉行に就任し、甚兵衛は川違えの功績により名字帯刀を許され、特別に新田づくりの権利を与えられ九十ニオで天寿を全うした。

付記】
 今日3月20日には、がもう健さんへのインタビューの準備にために、話をうかがいました。最近の「郷土史」では、官製の「市史・区史」を始めとして、本当の史実がどんどん削られゆく現状に憤りを感じること、例えば明治天皇が二度も「天下茶屋公園」に「行幸」に来た事実など、日露の戦いに「国威高揚」のためではなく、その頃近くで「隠居生活」を送っていた、自分の乳母に遇うためだったのではなど、興味深い話を聞かせていただきました。「郷土史」「地方史」は古臭い「逸話」に終わることなく、特に若い人が、明日への希望を培う寄《よ》す処《が》にしてほしいと熱っぽく語られました。最後に、まだまだ書きたいところが山程あるそうで、ご一緒に訪《たず》ねることを約して、プレインタビューを締めくくりました。インタビュー本番では、思ってもみないお話が飛び出すかもしれません。どうぞ、お楽しみにしてください。


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今昔木津川物語(005)

◎西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ(五)


松虫塚と海照山正円寺 (松虫通一-十ー・聖天下二)

 阿倍野区松虫通一 丁目にある「松虫塚」は昭和五十六年の都市計画道路(木津川《きづがわ》平野《ひらの》線)の工事にひっかかり、削《きず》りとられるところであったが、地元住民の保存への運動があり、結局道路の方が若干迂回してつくられた。

塚の由来《ゆらい》に静《せい》と動《どう》

 この塚の由来についてはいろいろな説があるが、ここでは二つだけあげておこう。
 一つは謡曲《ようきょく》「松虫」に謡われている物語で、”昔ふたりの男友達が虫の声を聞きにこの地に来たが、一人が月の光の中で鳴《な》く松虫の声に聞きほれて草むらに分け入る。あとの一人は残って草の上で寝ていたが、友達が帰《かえ》らないので見にいくとに伏《ふ》して死んでおり泣く泣く土中に埋《う》めて「松虫塚」と名づく“というもので、何の変哲《へんてつ》もない話だが、男同士の恋慕《れんぼ》に近い情《じょう》を表しているとの見方《みかた》もある。
 もう一つの話は、後鳥羽上皇の官女《かんじょ》で松虫・鈴《すず》虫の二人が、法然上人《ほうねんしょうにん》に帰依《きえ》して出家《しゅっけ》し、庵《いおり》を結んで生涯《しょうがい》を送った跡とするものである。
 松虫・鈴虫といえば一二〇七年の「承元《じょうげん》の法難《ほうなん》」で法然《ほうねん》と親鸞《しんらん》は追放処分、松虫・鈴虫の二人を出家させた弟子《でし》四人が死刑になるという、浄土宗《じょうどしゅう》が受けた歴史的な弾圧事件での主人公たちではないのか。吉川英治の小説「親鸞」では松虫・鈴虫の二人は犠牲者の後を追って自害《じがい》して果《は》てることになつているのだが。
 武士と農民、商工業者が成長した鎌倉時代は、宗教の上でも、武士や民衆《みんしゅう》を対象《たいしょう》とする新しい仏教が次つぎに起こった。法然の浄土宗はだれでも仏の前では平等《びょうどう》であり「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」と念仏を唱えさえすれぱ極楽往生《ごくらくおうじょう》できるという、貧《まず》しい人々を救《すく》うものであったが、朝廷と旧仏教の勢力からは迫害《はくがい》された。
 「承元の法難」以後約三百年たって、大坂石山寺を拠点《きょてん》として一向一揆《いっこういっき》の戦いが、織田信長を相手に約十年間にわたってやられた上町台地の一画であればこそ、松虫塚に法然や親鷲ゆかりのものを求めたのではないだろうか。
 幕末のころ、大坂の狂言作者《きょうげんさっか》西沢一|凰《おう》が「松虫・鈴虫両尼の墓前に花を手向《たむ》け『あたら花 坊主《ぼうず》にしたり 芥子《けし》二本』とよんだ」と記されているのをよめば、大坂では松虫・鈴虫|伝説《でんせつ》がよく知られていたと思われる。

地元の「夕陽ヶ丘」

 海照山正円寺は地元では「聖天《しょうてん》さん」の名で親しまれているが、もとは天狗《てんぐ》塚ともいわれ、昭和二十六年|大師堂《たいしどう》北方五十メートルの崖切《がけき》れの地下二メートルのところから、数十の巨石《きょせき》に囲《かこ》われた古墳を発見し土器《どき》、刀剣《とうけん》、金具類《かなぐるい》を出土したという。
 正円寺の前身《ぜんしん》は、天王寺村誌に「阿倍野千軒の一|房《ぼう》たりしものならんか、般若山《はんにゃざん》阿部寺と号《ごう》したりといへり。大坂夏の陣の戦火その他の厄にかかること数々」とある。
 上町台地より西海を見渡せるところから、海照山正円寺と号し現在は真言宗東寺派《しんごんしゅうとうじは》に属する。

歩いて歴史の”なぞ“を解《と》く

 さて、西成区から阿倍野区にかけてさまざまな史跡をみてきたが、共通《きょうつう》するものとしては、ひとつひとつの史跡に当時の支配者《しはいしゃ》、権力者《けんりょくしゃ》の側と庶民の側からという二つの見方、考え方があり、いくら昔のことだからといって、今|一色《いっしょく》に塗《ぬ》りつぶしてはならないということである。注意してみてみると、先人の残したシグナルを発見することもありうるからである。
 そして今、歴史のねつぞうが、マスコミを使って大々的にやられようとしていることを考えれば、たとえ郷土史《きょうどし》といえどもあいまいにしてはならないと思う。
 今回見てきた史跡は、いずれも全国区クラスの話題性《わだいせい》のあるもので、この地域の歴史と伝統《でんとう》を感じさせるものだった。数時間歩いて回れば、千数百年の各時代を「体験《たいけん》」できるわけだから、こんな恵まれた環境《かんきょう》を生かさなければ損だ、というのも私の郷土史|探求《たんきゅう》の理由のひとつでもある。

今回も、当地にちなんだ動画を追加します。存分にお楽しみください。

付記】
当生協ののデイサービス「つれづれの里」は、聖天さんの近くにあり、兼好「徒然草」から名前をいただきました。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

休診のお知らせ

 3月31日(土)、午後2時から4時までの、小児科と整形外科の診察は、休診とさせていただきます。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。

今昔西成百景(006)

◎幻の川・十三間堀川

 十三間堀川は一六九八年に木津川の水を引き入れて、用水と作物をはこぶために地主たちが費用を出し合って今の粉浜までつくられた。といっても今や埋め立てられ、その上を阪神高速道路が走っている幻の川。
 一九七〇年三月の万国博覧会開幕にむけて高速道路の突貫工事が行なわれたが、それまで長い間十三間堀川はゴミと悪臭の川として放置され、かつては屋形船も浮かんでいたというおもかげもない無残な姿をさらしていた。住民の「何とかしてほしい」という声を逆手にとって、埋め立て即高速道路建設と進んでいったのは、いかにもできすぎたやり方だと今からでは思われる。
 しかしこの高速道路は完全な欠陥道路である。振動・騒音・排ガス公害での住民からの苦情はたえないし、公団自体も年中補修工事をやってそのことを証明している。
 川のなかへじゃぶじゃぶと道路をつくって行っただけでなく、その道路の下には、堺臨海工業地帯へ行く工業用水の巨大な鉄管が納められていたのを多くの住民がみている。
 軟弱な地盤のうえに、ドテッ腹に大穴を開けられているようなことでは、高速道路も足のふんばりようがないのではないか。
 昔、住民がお上へ上納金を差出して許可を受け、みずから費用を出し合ってつくった十三間堀川、今では大企業のために行政が税金を使って埋め立て便宜をはかってやり公害だけを住民に残していった。大企業べったりの大阪府・市政の典型の一つだろう。
 十三間堀川ぞいの家の板べいに「赤旗」新聞を張り出してがんばっていた、今は亡き「植野のガラス屋のおっちゃん」の思い出と共に、かつての十三間堀川の姿はいつまでも忘れない。
(一九九一・七)

注記】本文、画像の二次使用はご遠慮ください。

お詫び

3月8日(金)夜半より、9日(土)朝まで、サーバーメインテナンスのため、ホームページが閲覧できなくなっていました。ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。

南大阪歴史往来(001)

◎大和川の川|違《たが》え(その一)


 大和川で小魚を釣っては空缶に入れて持ち帰り、母にコンロで焼いてもらったり、土手でトンボとりをしていて、気が付けば夕日が川口に沈みつつあり、あわてて友達と別れて帰宅したことなどがよくあった。
 川の中ノ島のようなところで砂遊びに夢中になっていると、いつのまにか潮が満ちてきて、ずぶぬれになって岸にはい上がってきたこともあった。
 子供の頃の大和川の思い出は、なぜか少しこっけいでそしてちよつぴり淋しかった。

青春の川は清流だった

 高校は大和川を南へ渡ってすぐの、南海電鉄高野線浅香山駅の前にあり、毎日車窓から川の流れと、砂地や堤を見ていた。
 体育祭の応援の練習にクラス全員で川原にやってきて授業に遅れておこられたり、親友と人生や文学について議論するなど、私にとってその頃の大和川は矢張り「青春の川」、であったような気がする。
 そして当時の大和川はけっこう清流であった。
 「浅香の千両曲り」という呼び方は後から知るのだが、大きな川にしてはかなりの急カーブで、私達の学校の北側に入りこんで来ていた。裸足になって川に入れば底はこまかい砂で心地よく、膝の辺りをさざ波がしげきし、太陽の光が川面に反射してまぶしかった。両岸には桜の樹が適当な間隔で立ち並び、四月には満開で祝ってくれた。土手には野の草花が咲き乱れ、しかし蓬(よもぎ)の葉を摘み取る人もいない。川の水はほとんど無臭である。堤防の分も入れると幅は約三百㍍もあり長さは見渡せるまで、見上げれば青空ははるか彼方。川の中に立てばこれらの風景がすべて一人で独占できた。
 時たま小鳥のさえずりと鉄橋を渡る電車のひびき。それも瞬間のもの。私はこんななんでもない大和川が大好きだった。
 その大和川がその後三十年たって、全国一汚れた川として一躍有名になっていようとは、「諸行無常」としか言いようのない、なんともやりきれない気持ちになる。

「大運河」をめぐる争い

そしてこの大和川にかって「元禄の川違(たが)え」という一大公共事業をめぐって五十年間に渉る住民間の激しい争いと、権力者達の策謀が逆巻く濁流があったことを、今となっては知る人も少ないのではないか。
 大和川は奈良県は初瀬川上流の笠置山地のつげ高原を源とし、奈良盆地の水を集めて大阪府と奈良県の間にそびえる、生駒山地と金剛山地の境目にある亀ノ瀬を通って、大阪平野に流れだし、南からの支流を合わせて上町台地を横切り、西に流れて大阪湾に達する一級河川である。

昔の大和川は「暴れ川」

 この川は今でこそ大阪府下では柏原市・藤井寺市・堺市・大阪市と流れているが、実は元禄十七年(一七〇五)までは、現在の八尾市・東大阪市・大東市を横切り、大阪城の北で淀川に合流していた。
 当時の大和川は流れがゆるやかで曲がりくねっているために、川底に砂がたまりやすく、洪水を繰り返す大変な天井川であり、暴れ川でもあった。
 そのために今から千二百年位前、地方長官であった和気清曆呂が大和川の水の一部を上町台地を割って海へ流す大工事を行なったが成功せず、「河掘口」「堀越」という地名だけを今に残している。

甚兵衛が幕府に対策を要求

 永年の懸案であった大和川の付け替えによる抜本的な治水対策を行なえと、幕府に対して要求して立ち上がった人物が、河内郡今米村(今の東大阪市今米)の庄屋をしていた甚兵衛である。
 旧大和川の川筋一帯は元々低湿地で水はけが悪く、大雨の降るたびに洪水の被害を受けていた。幕府は堤防を高くするだけで、ついには川底が周囲の田地より三㍍もたかくなってしまっていた。
 甚兵衛は二十オ前に父が亡くなってからその遣志を受け継ぎ、川違えの具体的な調査を行い、これによって多くの新田が生まれ、ひいては幕府も大増収になることなども提案し、江戸幕府や大阪町奉行所に五十年近く願い続けた。地元でも促進運動をした。
 当然のこととして、新川の予定地になる村や字や田地が潰されるところや、旧大和川で生活していた多くの船頭や漁師達は猛反対をした。
 川違え賛成派,反対派と親子二代にわたるたたかいに終止符を打ったのは、貞享四年(一六八七)に大阪町奉行所代官に万年長十郎が任命されたことによる。

注記】本文、画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔西成百景(005)

◎紹鴻(じょうおう)の森

二月三日午後五時より、関西芸術座の新稽古場落成記念パ—ティ—が、岸里東二丁目三番地の住吉街道に面した新築ビルで行われるとのことで、少し早めに出掛けていった。
関芸は西日本を代表するプロの新劇の劇団で、永年阿倍野区の文の里にあったが、今度阪和線高架化の予定に伴い、西成区へ移転して来たのである。新稽古場は三階建で二・三階吹き抜けのステ—ジには二〇〇席の観客席もつくることが出来て、前のより約二倍の大きさだという。そして新稽古場の東側には有名な紹鴎の森と天神の森天満宮がある。

武野紹鸥の銅像は堺にある

天満宮を勧請した武野紹鷗は文亀二年(一五〇二)生まれ。父は堺の豪商、子供を何とか武士にしようとしたがむしろ学芸を好み、特に茶道には熱心でその才能抜群、二十九オのとき茶道に専念したいため惜し気もなく地位を捨て剃髪。その後住吉大社の北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道は、この付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鷗は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの杜を紹鴎の森と呼ぶようになった。
紹鴎は茶の眼目に「和敬静寂」の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた。しかし武野家は紹鴎が五十四オで没してからは、数奇な運命をたどる。武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五才のとき織田信長に父の遺品「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名茶人・武野紹鴎ゆかりの紹鴎の森と天満宮(岸里東2丁目)器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家を継いだものの、天正十六年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵品すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長十九年(一六一四)六十五才病没するが、その場所は定かでないという。(西成区史)
大阪府保存樹の大楠をはじめ、巨老木が天満宮の境内にうっそうとし、菅原道真公が現れ出ても不思議でないふんいき。私は少し夢をみてみる。

西成のロビンフッドか

まず武野親子は時の暴君らが無理難題をふっかけてくるのは予想済ではなかったか。むざむざと名器をすべて差出し、しかも追放を受けるのなら、偽物を提出し本物は秘匿する抵抗を行なったのてはないか。紹鴎の鑑識眼は最高のものだったはずである。宗瓦はこの紹鴎の森の奥深く、住民に守られながら権力者共の有為転変を冷やかに見て、案外気楽に生涯を送ったのではないか。そう思えば先日の地震で落ちた瓦のガレキにまじつていわくありげな古茶碗のかけらが足元にある。
私の夢はここで終わって、もう五時、そろそろ関芸のパ—ティ—に出席せねばと思ったとき、阪堺線天神ノ森停留所からこちらに二人の「刑事」が歩いてくる。雰囲気でわかる。ぼんやりと見ていると足早く過ぎて行った。
関芸の稽古場ビルは本当に立派なものだった。これだけのものを民間の力でつくり上げたことに敬意を表したい。そして、私達を入口に並んで迎えてくれた劇団員の幹部の中に先程の二人の「老刑事」も居たことにびっくりした。かってのテレビドラマ「七人の刑事」の出演者であったのだ。これで西成の新劇の劇団が「潮流」に続いて二つになった。私の理想である「文化・スポ—ツの盛んな街、西成」に一歩近づいたことになるように、みんなで協力しなければと思った。
(ー九九五・ニ)

付記1】今回も、当地にちなんだ動画を追加します。存分にお楽しみください。
付記2】2024年4月号の、大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に紹鴻の森の紹介が載っていますのでお読みください。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(004)

西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ(四)

◎阿倍野王子神社と晴明神社 (元町九)

 十一|世紀《せいき》前期以来|盛《さか》んになったものに、王朝《おうちょう》貴族の四天王寺詣《してんのうじもうで》、住吉《すみよし》神社詣、高野山《こうやさん》詣および熊野詣がある。
 その中でも最も遠路《えんろ》を行く熊野《くまの》詣は、淀川《よどがわ》を船で下り、天満八軒屋《てんまはちけんや》辺りで上陸し、四天王寺、住吉、堺、泉佐野《いずみさの》を経て田辺《たなべ》から山《やま》の辺《べ》の道を通り熊野本宮へ向かう、往復百七十里、約三週間のコースが一般的《いっぱんてき》であった。
 この熊野街道の沿道《えんどう》には「熊野|九十九《つくも》王子」と称《しょう》せられている多くの神社があり、熊野詣をする人々はこれらの王子を巡拝《じゅんぱい》しながら本宮へ詣でた。現大阪|市域《しいき》で元の位置にある王子社は安倍野王子神社のみで、他は合祀《ごうし》や移転《いてん》させられている。

皇族《こうぞく》の道中《どうちゅう》は農民への重税《じゅうぜい》

 延喜《えんぎ》七年(九〇七)宇多上皇《うだじょうこう》から始まつた熊野|御幸《ぎょこう》は、弘安四年《こうあん》までの三百七十余年間に白河《しらかわ》・鳥羽《とば》・崇徳《すとく》・後白河・後鳥羽・後嵯峨《ごさが》・亀山《かめやま》の上皇《じょうこう》や法皇《ほうおう》によって百回近くも行われたが、特に後白河法皇などは三十四回、後鳥羽上皇も三十ー回という記録《きろく》をつくっている。彼等の御幸は所々《ところどころ》の王子社で供奉《ぐぶ》の公卿《くぎょう》に和歌の詠進《えいしん》をさせるなど華《はな》やかでぜいたくな道中であった。
 源平《げんぺい》の争乱《そうらん》に加《くわ》えてこれら皇族の遊興《ゆうきょう》や旅行は、摂河泉《せっかせん》の農民に重い負担《ふたん》をかけ、このことが頼朝の死で元気付いた後鳥羽上皇が、院政《いんせい》を復活して幕府《ばくふ》を押さえようとした、承久《じょうきゅう》の乱の失敗《しっぱい》にもつながっていった。

庶民《しょみん》の熊野詣は幸福《こうふく》への悲願《ひがん》

 庶民にとっての熊野詣は苦しくて厳《きび》しいものであった。それにもかかわらず、華厳経《けごんきょう》による補陀落浄土《ふだらくじょうど》こそは熊野であるとして、「蟻《あり》の熊野詣」といわれる程、えんえんと行列をつくつて詣でたということは、うちつづく天災《てんさい》、大火《たいか》、疫病《えきびょう》そして戦火《せんか》を何とか逃《のが》れたいという、切《せつ》なる気持ちによるものであったのだろう。

空海《くうかい》ゆかりの阿倍野の氏神《うじがみ》

 阿倍野の氏神として今も親しまれている王子神社は極《きわめ》めて古い創建であるが、天長二年(八二六)のとき全国的に疫病《えきびょう》か流行《りゅうこう》した際《さい》、空海《くうかい》が一千部の薬師経《やくし》を読経《どきょう》し、一石《いっせき》に一字《いちじ》を書写《しょしゃ》して祈《いの》ったところ疫病がやみ「痾免《あめん》寺」の勅号《ちょくごう》と勅額《ちょくがく》を受けたとある。この痾免寺は当神社の神宮寺《じんぐうじ》として、今も印山寺《いんざんじ》と改称《かいしょう》しその法灯《ほうとう》が継《つ》がれている。
 阿倍野王子神社の祭神はイザナギ、イザナミ、スサノオノ、ホンダワケノ命《みこと》、阿倍野王子そして男山八幡宮《おとこやまはちまんぐう》を合祠《ごうし》している。境内のくすのき三本が市指定保存樹《ししていほぞんじゅ》として往時《おうじ》の面影《おもかげ》を残している。
 阿倍野王子神社北側に阿倍晴明神社がある。祭神は平安中期の天文博士《てんもんはかせ》で阿倍|臣《おみ》の子孫。天慶《てんけい》七年(九四四)に当地で誕生し、陰陽道《おんようどう》にすぐれ天文博士、太膳太夫《だいぜんのだいぶ》、左京太夫《さきょうだゆう》、播磨守《はりまのかみ》を歴任《れきにん》寛弘《かんこう》二年(ー〇〇五)に没《ぼつ》した。
 境内に「産湯《うぶゆ》の井戸」があり、晴明の産湯《うぶゆ》を汲《く》んだところといわれている。また「恋しくば訪ね来てみよ和泉《いずみ》なる、信太《しのだ》の森のうらみ葛《くず》の葉」で有名な葛の葉|子別《こわかか》れの像もあり、都会の中にひとつ忘れられたような、こじんまりした静かな神社である。

塔心礎《とうしんそ》は出土の地へ

 往昔《おうせき》、四天王寺|庚申堂《こうしんどう》の巽方《たつみかた》に、大化の改新の際左大臣に任ぜられた阿倍内倉梯磨《あべのうちくらのはしまろ》建立《こんりゅう》の阿倍寺という広大な寺院があったという。
 この寺は阿倍寺|千軒《せんげん》といわれ極《きわめ》めて広大な地域を有《ゆう》していたらしいが、昭和十年松崎町二丁目の松長大明神の境内から古瓦《ふるかわら》(複弁八葉連華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦)、塔心礎が出土し、その塔心礎の大きさから、相当《そうとう》大きな堂塔伽藍《どうとうがらん》が存在《そんざい》したことが裏《うら》づけられ、白凰《はくおう》・天平《てんぴょう》時代(六四四―七九四)のものだろうと云われている。この塔心礎、現在はなぜか西成区の天下茶屋公園にあるが、貴重《きちょう》な大阪府指定の文化資料としても、本来《ほんらい》のしかるべきところへ移《うつ》すべきではないだろうか。

 今回も、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

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今昔堺物語ー大阪史跡めぐり(002)

◎鉄砲町
編者注】大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」掲載(2015年8月号)では、タイトルは、「鉄砲合戦」

 天文十二年(一五四三)三人のポルトガル人が暴風にあい、薩南諸島の一つ種子島に漂着した。彼等は二本のニ~三尺の鉄筒を持っていて、その用法と威力を領主に教えた。鉄砲が日本に入ってきた最初である。
紀伊根来寺の杉坊妙算、これを求めるため種子島に渡って帰ってきた。当時根来寺のふもとにいた堺生まれの鍛工芝辻清右衛門が、その製法を学び堺で製造した。

戦国の日本は鉄砲保有大国

 戦国大名にとって、馬と槍による従来の戦いが、鉄砲伝来で完全に塗り替えられることとなった。
芝辻らは商人でもあったので、鉄砲の製造と販売に力を注いだ。そのため鉄砲は全国的に一挙に普及し、たちまち日本は世界でも有数の鉄砲保有国となった。
織田信長は武田勝頼との長篠合戦で、三千挺の鉄砲を有効に使って勝利している。
 芝辻文書によれば、明暦三年(一六五七)諸国諸大名からの注文の合計は四千五百三十五挺で、これが最高であったという。もちろん堺以外にも製造していたので、当時全国での年間の鉄砲製造数は、相当なものであったと想像できる。

大坂の陣は堺製の鉄砲合戦

 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣に芝辻は豊臣方より五百挺、徳川方より千挺の注文を受けており、大坂の陣は堺の鉄砲の打ち合いであったことになる。
 冬の陣は徳川方が二十万人の大軍で大坂城の周りを取り囲んだが、その前に立ちはだかったのが、秀吉の怨念の固まりのごとき「惣構」とよばれる、大河なみの外堀であった。秀吉はわが子秀頼のために晩年、大坂城を名実共に難攻不落の要塞にしようと思い立ち、外堀を広げ延ばし、堀の底にはさまざまな仕掛けをして、完全なものに仕上げていた。惣構工事の結果大坂城の面積は一挙に四〜五倍となり、冬の陣の最中にも城内では商人はいつものように商売をし、野菜は自給自足ができたという。

冬の陣では徳川方も大苦戦

 当時の鉄砲は未だ七~八十メートル位しか弾は飛ばず、何千挺という数の徳川方の鉄砲もいくら射っても城内には達しない。手柄をあせって堀の中に入っていけば、底には妨害物が置かれており動けない。堀の中であがいていると、二階矢倉から狙い撃ちされる。徳川方の二十万の軍勢がひと月半の間、大坂城をびっしりと取り囲んだのはよかつたが、結局その間、一兵たりとも攻め入ることは出来なかった。
 季節は真冬、二十万人の食糧も底をついてくる。掠奪ばかりしていると、背後に敵をつくることになる。しかしこのままでは、徳川方から先に、凍死・餓死者を出さないとも限らない。すでに各隊とも逃亡兵が続出している。

家康「まさか…」と動揺?

 地下にトンネルを掘って本丸の下で爆発させる作戦も、山から人夫を呼び寄せやらせているが、これはあくまでも心理作戦で、二重三重の堀をくぐって行けるはずがない。
 徳川方の圧勝という予想で始まった戦いだけに、もたもたしていると情勢が一変レ)しまうこともありうる。これは現代の選挙戦でも同じことが云える。「矢張り家康は城攻めは下手」との声も聞こえてくるようで、家康はふるえが止まらない程動揺していた。
 そこで家康はさかんに和睦案を出して、豊臣方をゆさぶり出した。最終的には秀頼と淀殿はもとより、城内の浪人共の責任も一切問わない。条件は外堀の埋め立てのみという、本音をさらけだしたものとなった。

まぐれ弾が和睦案をのます

 この和睦案を豊臣方が受け入れることになるのは、それまで一貫して徹底抗戦を主張し、高齢の家康が死ぬまでの籠城を云っていた淀殿の心変わりであった。手の平を返すように淀殿が態度を変えた謎を解くカギは堺にあった。
 当時すでに鉄砲以上のものとして大筒がつくられていて、徳川方により大坂城のまわりにも数多く配備されていたが、約三センチ位の弾が飛び出すだけで、幕でも張っておけば、被害はあまりないという代物であった。
 そこで攻撃の最後の手段として徳川方は、かねてより堺の芝辻に命じてつくらせていた、砲身一丈、口径一尺三寸、一貫五百匆の砲弾を打ち出す大大筒と、これ以外にもイギリスやオランダから本物の大砲を技術者付きで十数門買い入れ、京橋口の片桐且元の陣地から打ちまくった。これらの弾丸も城内には達せず、ただ万雷のごとき音響だけははるか京都にまで届いたというから、城内ではさぞや鳴り響いていたことであろう。しかし、内戦に外国の力を借りた徳川方のやり方は、今も就任後ただちにアメリカ参りをする、日本の首相に引継がれているというのであろうか。
 ところが十二月十六日の朝、突然サッカーボール位の鉄の弾が、本丸内の淀殿の居間の櫓を打ち破って突入、侍女二人を死亡させてしまった。当時の弾丸は爆発するまでにはまだなっておらず、ただ打撃を与えるだけだが、直撃を受ければ被害は大きい。
 このまぐれ当たりの一発で淀殿はびっくり仰天、一度に和睦論者に転向した。
 その後徳川方は約束を破り、外堀だけでなく内堀まで一気に埋めてしまい、裸になった大坂城はあわれー年後の夏の陣では、たったの三日間で落城、炎上してしまうのである。
 日本の歴史を変えた大砲をつくった堺には今、鉄砲町という町名は残っているが、現地には鉄砲についての見るべき資料等を展示した施設もなく、本来はその役割を果たさなければならない高須神社が、早々と商売繁盛の稲荷神社に変身するなど、何か訳があるのか知りたいところである。

(二〇〇四.五)