がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第53回

◎法住寺ー大石内蔵助も詣った身代不動尊

 京都は三十三間堂の東にある法住寺は、後白河法皇の院政の舞台「法住殿」の後に建てられた。本尊は身代不動尊。討ち入り前の大石内蔵助も参拝したという。
 「身代わり」とは後白河法皇が法住殿に住んでいた時、木曽の義仲が院の御所に攻め入り、あやうかったところを当時の天台蔵王、明雲大僧正が身代わりとなって、後白河法皇は難を逃れることができた」と伝えられていることによる。
 「山科に身をひそめて、江戸の吉良邸への討ち入りを計画していた内蔵助が、わざわざ一体何を…。友ちやんはどう思う」と次郎。「やはり、自分らに代わって吉良をこらしめてほしいと、率直にお願いしたのではないの」
 「天災もあれば急病もあるしね。内蔵助は仇討決行による悲惨な結末を予想して万が一の身代わりをすがったのか…」
 赤穂浪士が吉良邸へ討ち入ったのは、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の深夜、世間に悟られないよう、バラバラの服装でバラバラに集まってきて、表門と裏門に分かれて侵入。時代劇にあるような、かっこうのいいものではなかったのです。
 「戦争中に小学校で忠臣蔵が戦意高揚に使われて、四十七士の名前の暗記などやらされた」「学童疎開や空襲、もう絶対いやね」

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年11月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第59回

◎天龍寺ー嵐山を借景にした壮大な庭」

 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提をとむらうために、自ら土石を運んで五年がかりで建てた寺として知られ、夢窓国師を開山としている臨済宗天龍寺派の総本山。
 境内では唯一当時のままの姿を残す池泉回遊式の曹源地庭園は、臨済宗の禅僧であり、作庭に秀でた夢窓疎石が手掛けた壮大な庭園。
 その伽藍をつくるために、夢窓は幕府に中国(元や明)との通商貿易を開くよう進言しその貿易船は遣明船として活躍した。
 「暦応元年(ー二三八)征夷大将軍に任じられた尊氏が政敵である後醍醐天皇のために築き上げたのだね」と次郎。
 「ところが、京都国立博物館所蔵の足利尊氏像は、鎧を着て馬にまたがっているのに、兜はかぶっていない。髪型は〝ざんばら髪〟その人相は口をへの字に曲げ、ひげをたくわえ見るからに〝悪玉〟だ。しかも、抜いた刀を肩にかつぎ、背負った六本の矢のうち一本は折れているなど、いかにも落ち武者のいで立ち。じつはこの肖像、従来は唯一の足利尊氏像と考えられてきたが、近年は別の人物ではないかと言われだしている」
 「尊氏をいったん朝敵と決めつければ、永久に極悪人扱いして何とも思わない、日本の歴史学とはいったい何なのか」と次郎。
 「本当にそっちの方が恐ろしい」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年6月号収録

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今昔木津川物語(056)

◎続万代池

 前回の木津川百景で万代池について、「まんだ」とはアイヌ語の古地名であったものを、後世の人が「万代」と当字したのではないか「まんだ」とは一体何のことなのか。それが判れば、万代池が元は何であったのか、聖徳太子がこの地で退散させたという「魔物」の正体も判るであろう。と書いたところ、多くの方から「これは前編ではないか、後編を続けてかくように」との「要請」を受けて正月休みに少し頭をひねってみた。

「ま」は古地名で「入江」

昭和三十二年(ー九五七)に大阪市立大学新聞会より発行された、畑中友次氏の著書「古地名の謎近畿アイヌの地名研究」によれば、「ま」はアイヌ語では入江をあらわす言葉として使われており、例えば米原(まいばら)駅のある旧村名は入江村であり、「まとほ」は小さい入江のことで、松帆(淡路)、間遠(伊勢)、的形浦(伊勢)などが今も地名として残る。
 大阪市阿倍野区の松虫もこれまではこの地にあつ<ママ あった?>松虫塚によって地名が出来たように伝えられていたが、此の地の地形を見ると「まつい」(入江があるところ)が語源であることが判る、というのである。更に隣接する西成区の松田町についても「まつら」という「入江の低いところ」というのからとったのではないか。

今も根強く残る古代の地名

 「ま」というアイヌ語が入江に関係するのもだとすれば、木津川百景に出てくる地名の「粉浜」「勝間」「釜ケ崎」そして「松虫」「松田」などの地名の由来を今まではかなりこじつけてきていた問題が、例えば「勝間」は「古妻・古夫・古間・木積」などからきているというもの
だが、一挙に解決ということになるのである。
 答えは、これらの地名は今も上町台地の裾にある町の名であることから明らかなように、かつての二十爲近い崖のあちこちにあった入江に由来するものだということである。字を持たなかった古代の住民は、入江を区別するために「ま」の前後に付足しをしていたのだろう。

深い入江に来襲する巨大な津波

 さて、問題の万代池のことであるが、これが入江だとすれば相当に台地に入り
込んだ、するどいものであったということが地形からも想像できる。
 次にいよいよ、深い入江の近くに住む人々にとっ て何よりも恐ろしいものとは何か。それは地震のときの津波である。安政の大地震で大阪で多数の犠牲者を出したのも津波であった。木津川・安治川・尻無川を巨大な津波が牙をむいてかけ昇り、前日の地震の余震を恐れて、川に浮いた船の中なら大丈夫だろうと千八百の船の中に避難していた数千の人々をあっという間にのみこんでしまったのであった。津波はまた十ヶ所の橋も落橋させた。

危険な入江を埋めて池に

 「万代池」の入江も大変危険な場所であったに違いない。永年にわたり多大な被害がもたらされていたことだろう。そこで人々はこの入江を安全化するためにただ祈祷するだけでなく具体的な対策に乗り出した。
 それは、入江の入口を埋め立てて入江を池にしてしまうとい、つ思い切ったものだった。そのためには、莫大な労力と土砂が必要だ。労力は住民の切実な要求でもあるので、力を合わせてやり遂げるとしても、土砂の調達については困った。そこで人々は思い切って近くにごろごろしていた古墳のひとつを取り崩して、入江埋め立ての土砂にしてしまったのである。

巨大古墳が消えた謎も解決

 「大阪市史」によれば、現在史跡となっている帝塚山古墳の北東方に隣接してこれをはるかに上まわる規模の、前方後円墳の痕跡が地籍図からたどれるというのである。現状では墳丘は全く形を止めず、古墳の中軸線に当たる所を南海電鉄の高野線が縦断している。
 明治時代になってから、歴代天皇の墓をあちこちの古墳にこじつけてから、いわゆる御陵については「厳重警戒」体制になった。しかし、その他の古墳は戦後も大分してから、立ち入り禁止になったりしたが、それまでは子供達の絶好の遊び場、自然とのふれあいの場でもあったのである。まして、大昔のこと古墳を開墾して田畑にすることなどは、日常的にやられていたことである。
 また、入江を池にしてしまうことでは、住吉大社の太鼓橋の下の池もそうだと伝えられている。
 最後に、聖徳太子が曼陀羅経を上げて退散させた魔物とは。今も万代池の中之島に祭られているのが「龍王大明神」であることからみて、龍であることに間違いない。龍は海に住む架空の怪物であり、人々に鎌首をもとあげて襲いかかるといわれ、結局は地震での津波を龍に見立てたというのが正解。
 以上が私の大胆な推理なり。

今昔木津川物語(049)

◎大阪港

 大阪湾は紀淡海峡で太平洋に、明石海峡で瀬戸内につながっている。西の方からは強い風が常に吹き付ける。そのため入船にはよかったが、出船は風向きを見なければならなかった。川底は上流からの土砂で常に浅くなっていく。
 昔は船体が大きな船は一旦、河口で停泊し、そこから小船に積み替えて、河岸や掘割りに並ぶ蔵屋敷に持ち込んだ。
 明治に入ってからも、隣の神戸と比べると大阪港には大きな船はほとんど入っていない。大阪港は神戸港におくれをとってしまった。

大阪港の大改造で大阪発展

 大阪港を根本的に改造するには、強い西風を避けるため、海の方に突き出た防潮堤を築いて港のふところを大きくし、接岸設備を思い切って増設しなければならない。
 大阪市は、明治二十五、六年頃から調査にかかったが、日清戦争で中断し、新淀川の完成を控えた三十年にやっと築港事業が議会を通過した。
 工事は予定より遅れて、大正十四年に完了した。昔の天保山は取り払われ公園となり、そこから幅二十七㍍、長さ四百五十㍍の大桟橋が造られた。その他に護岸・上屋・臨港鉄道などが整備された。
 この築港に接する西大阪地域は、その当時まだあまり開かれていない空き地の多い地域であったが、市電が真つ先に敷設され「魚つり電車」といわれながら、がら空きで走っていた。
 その後この地域一体は、工場や住宅の用地として埋め立てられ、「港区」の誕生となる。

大桟橋が「大出征基地に」

 大栈橋から日露戦争に大量”の兵器を船出させたのを皮切りに、その後敗戦までの間全国各地から軍隊が集結、それぞれ戦場に向け船出していった。
 築港工事と共に計画された国鉄臨港線は、関西線今宮駅から分岐し、尻無川沿いに下って港区西端の天保山運河近くまで達し、途中振り分けられた貨車は、そのまま各岸壁のプラットホー厶に直接横付けできるというものであった。
 戦時中は軍事輸送一色となり取扱量も急増、各地から集められた軍隊は、なぜか途中の浪速駅で下車し、人家のあまりない海岸通りを行進して船に乗り込んでいった。

「国防婦人会」発祥の地に

 出征していく夫や息子の無事を祈って、家族が戸別訪問や駅に立って、ひと目ひと目結んでもらった「千人針」をなんとか手渡したいと、近くの旅館に泊り、最後の機会を「海岸迥りの行進」にかける人もあったのではないか。この兵士や家族たちの何か役に立ちたいと、地元港区の女性たちが自然と活躍したのを、軍部は「国防婦人隊」という戦争協力団体につくりかえ全国にひろめさせた。
 後に港区は空襲でほぼ全域が焼きつくされ、港区戦没者慰霊碑の過去帳に記載されているだけで犠牲者は二千八十人にのぼる。この過去帳は西栄寺の住職が昭和三十年頃、港区役所の地下倉庫にあった「埋葬許可書」から丹念に拾いだした貴重なものである。
 港区が「大出征基地」にされたために大空襲の標的になったと、地元では毎年欠かすことなく、反戦平和を誓いあうあつまりをもって、戦争の悲惨さを語り継いでいる。