【編者注】
「がもう健の郷土史エッセー集」は、2012年9月以降、大阪きづがわ医療福祉生協の機関紙「みらい」に連載記事として、引き継がれています。今後は、機関紙掲載の記事を底本とし(画像も新たに追加)、旧版(出版本)にあった文章もできる限り追加し投稿したいと思いますのでよろしくお願いします。本投稿は、2013年2月号の「みらい」に掲載された分を編集したものです。
◎吉田兼好《よしだけんこう》の藁打石《わらうちいし》
聖天山天下茶屋正円寺の南坂参道入口に「兼好法師藁打石《けんこうほうしわらうちいし》」がある。
吉田兼好《よしだけんこう》とは、鎌倉時代末期の歌人・随筆家で本名は卜部兼好《うらべかねよし》、京都吉田に住んでいたので、この姓を称した。十九オで二条天皇に仕え二十代の半ばに従五位下|左兵衛佐《ひょうえのすけ》(官位)に任じられるなど早い出世で、すでに歌人として、認められていたようである。その後、彼が何故いつ出家したのか、名作「徒然草《つれづれぐさ》」はいつどこで書かれたのかは殆ど判っていない。正平《しょうへい》五年(一三五〇年)六十七オ没といわれる。
兼好が密勅を北畠顕家へ
通説では南北朝の争いで、当時伊賀でくらしていた兼好が南朝の密勅《みっちょく》を受けて、奥州の北畠顕家《きたばたけあきいえ》のもとに赴いた。その後、顕家が髙師直《こうのもろなお》と戦った阿倍野のほとりに庵を構え、命松丸《めいしょうまる》という童と寂閑《じゃっかん》という僧の三人で、藁《わら》を打ち筵《むしろ》を織って生計を立て、読経三昧に顕家の菩提《ぼだい》をとむらったという。
そうだとすると、兼好が阿倍野へ来たのは北畠顕家が討死した暦応六年以後となり、五十五オの頃となるが、顕家はこの年の三月に阿倍野で高師直と戦って負けてはいるが討死はしておらず、同年五月二十二日、南へなかり離れた和泉の石津浜で戦死している。顕家を弔うなら当然和泉へ行くべきはず、と、阿倍野に居たことを疑問視する見方もあるが、私はやはり兼好は阿倍野に居たと思う。
兼好阿倍野説を唱える根拠
当時、兼好の庵の辺りは手(帝)塚山古墳をはじめ大小のさまざまな古墳が丘をなし、西には玉出の浜も近く活きのよい魚もあり、砂地の畠の作物も豊かにある。また、百年程前まではあれほど栄えた、熊野三山への参詣街道であった熊野街道の、今では草原の中にあり往来する人もまばらという、兼好が筆をとるには最高の環境であった。
「徒然草」の中に一段だけ政治を厳しく批判したものがある。その内容は、後醍醐《ごだいご》天皇の「建武《けんむ》の中興《ちゅうこう》」や「王政復古《おうせいふっこ》」の実態が、庶民のくらしをいかに痛めつけているかということを指摘したもので、権カから弾圧されるおそれのある内容のものである。
かって、北畠顕家と楠木正成《くすのきまさしげ》が政権の腐敗を知り、農民への増税を止めよ、税金のムダ使いはするなと激しくそれを批判しながらも、結局は人心の離れた朝廷を保守するために負け戦と知りつつ出陣せざるをえなかったときに、それぞれが後醍醐天皇に諫言《かんげん》したものと兼好の一文は同じ立場のものであった。
伊賀の忍者と関係し、反権力の思いを持っていた兼好が、顕家戦死の石津浜で顕家の菩提を弔う行為をしなかったのは、むしろ当然のことであったと私は推理する。
圧政に悲憤慷慨した兼好
兼好が四天王寺や住吉大社に反古紙をもらいがてら取材に行ったことが書かれた一文もあり、阿倍野で藁を打ちながら、圧政に悲憤慷慨していたのは事実ではないか。
「隠棲庵碑」はもとは阿倍野警察署南横を四百㍍ほど西へ入った所にあった。
「藁打石」は旧松虫通の柘榴塚という小さな古墳の上の、千両松という巨木の根本に置かれており、土地の人は夜啼石とも呼んで触るのも怖がっていたという。
ディサービスセンター「つれづれの里」オープン
「聖天山さん」の近くにある、私たちのディサービスセンターがその名を公募した結果「つれづれの里」と命名されたことは、兼好の思いをひきついだものといえよう。