今昔木津川物語(019)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(四)

◎願泉寺《がんせんじ》・唯専寺《ゆいせんじ》(大国ニーニ・敷津西ニー十三)

 願泉寺はその伝《でん》によると開祖《かいそ》永証《えいしょう》は小野妹子《おののいもこ》の八男《はちなん》多嘉丸《たかまる》と称し、聖徳太子《しょうとくたいし》の守屋征討《もりやせいばつ》に加わって功《こう》があり、太子四天王寺を造営《ぞうえい》のとき、運河《うんが》を開削《かいさく》して諸国よりの木材の運搬《うんぱん》を容易《ようい》にした。

定龍が地域を統一

 その後二十七世乗教《せじょうきょう》の時蓮如上人《れんにょしょうにん》に帰依《きえ》し本願寺《ほんがんじ》に加わる。天正《てんしょう》年間本願寺|門徒《もんと》、織田信長《おだよぶなが》と戦った時、時の願泉寺|住職《じゅうしょく》定龍《ていりゅう》は極めて武略な人で木津一難波・今宮・高津《たかつ》・勝間《こつま》・三軒家等の門徒を指揮《しき》して一方の将《しょう》となり、摂河泉《せっかせん》の間に転戦《てんせん》し大いに軍功《ぐんこう》を上げた。その功により、本願寺の願の一字を賜《たまわ》って願泉寺と称《しょう》したという。
 唯泉寺もその伝によると用命天皇《ようめいてんのう》の御《おん》宇天種|命《みこと》の裔《すえ》である跡見《あとみ》赤摂が、聖徳太子の四天王寺建立に際し木津浦《きづうら》に来たりて住《すまい》し草庵《そうあん》を構《かま》えていたが三十三世跡目光重に至って蓮如上人の弟子となって真宗《しんしゅう》に転じた。本願寺と信長の合戦の際|抜群《ばつぐん》の功《こう》をあげ、夭正八年四月|顕如《けんにょ》上人石山|退去《たいきょ》の時当寺に一泊の上|雑賀《さいが》に出発したとのこと。

手をたずさえ「魔王《まおう》」信長とたたかう

 願泉寺、唯泉寺共に聖徳太子と四天王寺造営にゆかりがあり、またその後の石山合戦でも手をたずさえて「魔王」信長と戦い、空襲で焼失したのも一緒で、それぞれ戦後再建された。
 足利《あしかが》時代より木津川口の陸地化がすすむとともに、海浜《かいひん》であり大坂に入る軍事上の要衝《ようしょう》の地として、この辺りの争奪戦《そうだつせん》が盛んに行なわれたのである。

反戦の伝統生かして

 ガイドライン法という名の戦争法が国会で強行採決されると、待っていたとばかりに、海上自衛隊が艦船《かんせん》二十五隻、航空機二十一機を出動させて、大阪湾での戦後最大規模の軍事演習を実施した。
 歴史に学んで今こそ地域ぐるみの、戦争法反対の発動をゆるさない大運動が必要なのではではないか。