今昔西成百景(030)

◎「聖天さん」——海照山正円寺

 「聖天山公園内に存在する聖天山古墳は、昭和二十六年に石室が見つかり埴輪や土器・直刀・馬具などの副葬品が出土した確実な古墳である。造営時期は古墳時代の後期、六世紀代と考えられるという。
 この古墳の南側にある、「聖天さん」で名高い正円寺の丘陵は、西向きの前方後円墳の可能性も考えられる。もしそうだとすれば、墳丘長は一〇〇メ —トルを超えるであろう」(大阪市史)
 「聖天さん」と親しまれているのは、西成区と阿倍野区の境にあり、町名としては阿倍野区松虫通三丁目にあたるが、西成区民に長年地元のお寺として馴染まれてきた正円寺のことである。急な階段を昇ると山門にも「海照山天下茶屋天尊」と掲げられている。
 寺伝によると、天慶二年(九三九)権化光道大和尚の開基で般若山阿部寺のー坊で、現在は真言宗東寺派に属する。本尊の大聖歓喜天皇は慈覚大師の作だと伝えられる。

現世利益の「聖天さん」

 聖天山奥の院には、鎮守堂・寄松塚・石切分祠,波切不動明王・弁財天祠・などがあり、そのほかにも、ぼけ封じ地蔵・水子地蔵・水掛け不動明王が参拝者の願いを逃がさじとかまえている。因みにこれら神仏のご利益を挙げてみると商売繁盛・家内安全・産業振興・海上安全・開運出世・芸能上達を願うものであった。
 「聖天さん」はまさに千年このかた、庶民の祈りと願いの場であったといえよう。

遠ざかる海辺

 百度石を廻り疲れて、お寺の庭から西をみれば夕日が海に沈んでいく。人々はここで再び手を合わせる。
 はじめは目の下にあった海岸線も住吉街道ができる頃から遠ざかり始め、江戸時代には十三間堀川の西に迄のびたという。
 海を望見できるところから海照山正円寺と命名されたのだが、「聖天さん」はまた落日信仰の場でもあったのだ。

「聖天さん」ゆかりの人

 以前に毎日新聞の「女の創作」によく入選されていた脇田澄子さんが、千本から「聖天さん」の近くに転宅されてから、もう何年になるか。脇田さんは原稿用紙四枚程度の「掌小説」を作品集にして、毎年手作りで出版されていたが、すでに十号に達するという。先日知人から借りて読ませていただき、感動した。庶民の日常の哀歓がにじみでていて、読み出したら止められない。
 小犬を連れて聖天山公園をよく散歩されている脇田さんの胸のなかに、こんな思いがかくされているのかと、微笑ましい限りである。
 「聖天さん」と民謡をこよなく愛し、三味線教室を開いておられた井佐原幸子さんが、この二月に急逝されたことは、かえすがえすも残念でならない。
 天下茶屋民主診療所を中心にして、西成医療生活協同組合の理事、日本共産党後援会の活動家として永年奮闘されてきた伊佐原さんは、私に民謡の手ほどきをして下さったり、また「現代西成百景」の出版を励ましてくれた得がたい友であった。
 伊佐原さんは、「聖天さん」の坂を登りながら、何を願っていたのだろうか。「もっと心を豊かに、もっとやさしく」を先輩からのメッセ—ジとして受けとめて、「聖天さん」の坂を私は下った。

編者追加】
・「『聖天さん』——海照山正円寺」は、「今昔木津川物語(005)」と「今昔木津川物語(020)」でも案内しています。ぜひご覧ください。
・2024年9月9日9時9分に、組合員の皆さんと「平和のつどい・鐘つき」を聖天さんで行いました。スナップと動画を掲載します。

動画 →

今昔木津川物語(005)

◎西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ(五)


松虫塚と海照山正円寺 (松虫通一-十ー・聖天下二)

 阿倍野区松虫通一 丁目にある「松虫塚」は昭和五十六年の都市計画道路(木津川《きづがわ》平野《ひらの》線)の工事にひっかかり、削《きず》りとられるところであったが、地元住民の保存への運動があり、結局道路の方が若干迂回してつくられた。

塚の由来《ゆらい》に静《せい》と動《どう》

 この塚の由来についてはいろいろな説があるが、ここでは二つだけあげておこう。
 一つは謡曲《ようきょく》「松虫」に謡われている物語で、”昔ふたりの男友達が虫の声を聞きにこの地に来たが、一人が月の光の中で鳴《な》く松虫の声に聞きほれて草むらに分け入る。あとの一人は残って草の上で寝ていたが、友達が帰《かえ》らないので見にいくとに伏《ふ》して死んでおり泣く泣く土中に埋《う》めて「松虫塚」と名づく“というもので、何の変哲《へんてつ》もない話だが、男同士の恋慕《れんぼ》に近い情《じょう》を表しているとの見方《みかた》もある。
 もう一つの話は、後鳥羽上皇の官女《かんじょ》で松虫・鈴《すず》虫の二人が、法然上人《ほうねんしょうにん》に帰依《きえ》して出家《しゅっけ》し、庵《いおり》を結んで生涯《しょうがい》を送った跡とするものである。
 松虫・鈴虫といえば一二〇七年の「承元《じょうげん》の法難《ほうなん》」で法然《ほうねん》と親鸞《しんらん》は追放処分、松虫・鈴虫の二人を出家させた弟子《でし》四人が死刑になるという、浄土宗《じょうどしゅう》が受けた歴史的な弾圧事件での主人公たちではないのか。吉川英治の小説「親鸞」では松虫・鈴虫の二人は犠牲者の後を追って自害《じがい》して果《は》てることになつているのだが。
 武士と農民、商工業者が成長した鎌倉時代は、宗教の上でも、武士や民衆《みんしゅう》を対象《たいしょう》とする新しい仏教が次つぎに起こった。法然の浄土宗はだれでも仏の前では平等《びょうどう》であり「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」と念仏を唱えさえすれぱ極楽往生《ごくらくおうじょう》できるという、貧《まず》しい人々を救《すく》うものであったが、朝廷と旧仏教の勢力からは迫害《はくがい》された。
 「承元の法難」以後約三百年たって、大坂石山寺を拠点《きょてん》として一向一揆《いっこういっき》の戦いが、織田信長を相手に約十年間にわたってやられた上町台地の一画であればこそ、松虫塚に法然や親鷲ゆかりのものを求めたのではないだろうか。
 幕末のころ、大坂の狂言作者《きょうげんさっか》西沢一|凰《おう》が「松虫・鈴虫両尼の墓前に花を手向《たむ》け『あたら花 坊主《ぼうず》にしたり 芥子《けし》二本』とよんだ」と記されているのをよめば、大坂では松虫・鈴虫|伝説《でんせつ》がよく知られていたと思われる。

地元の「夕陽ヶ丘」

 海照山正円寺は地元では「聖天《しょうてん》さん」の名で親しまれているが、もとは天狗《てんぐ》塚ともいわれ、昭和二十六年|大師堂《たいしどう》北方五十メートルの崖切《がけき》れの地下二メートルのところから、数十の巨石《きょせき》に囲《かこ》われた古墳を発見し土器《どき》、刀剣《とうけん》、金具類《かなぐるい》を出土したという。
 正円寺の前身《ぜんしん》は、天王寺村誌に「阿倍野千軒の一|房《ぼう》たりしものならんか、般若山《はんにゃざん》阿部寺と号《ごう》したりといへり。大坂夏の陣の戦火その他の厄にかかること数々」とある。
 上町台地より西海を見渡せるところから、海照山正円寺と号し現在は真言宗東寺派《しんごんしゅうとうじは》に属する。

歩いて歴史の”なぞ“を解《と》く

 さて、西成区から阿倍野区にかけてさまざまな史跡をみてきたが、共通《きょうつう》するものとしては、ひとつひとつの史跡に当時の支配者《しはいしゃ》、権力者《けんりょくしゃ》の側と庶民の側からという二つの見方、考え方があり、いくら昔のことだからといって、今|一色《いっしょく》に塗《ぬ》りつぶしてはならないということである。注意してみてみると、先人の残したシグナルを発見することもありうるからである。
 そして今、歴史のねつぞうが、マスコミを使って大々的にやられようとしていることを考えれば、たとえ郷土史《きょうどし》といえどもあいまいにしてはならないと思う。
 今回見てきた史跡は、いずれも全国区クラスの話題性《わだいせい》のあるもので、この地域の歴史と伝統《でんとう》を感じさせるものだった。数時間歩いて回れば、千数百年の各時代を「体験《たいけん》」できるわけだから、こんな恵まれた環境《かんきょう》を生かさなければ損だ、というのも私の郷土史|探求《たんきゅう》の理由のひとつでもある。

今回も、当地にちなんだ動画を追加します。存分にお楽しみください。

付記】
当生協ののデイサービス「つれづれの里」は、聖天さんの近くにあり、兼好「徒然草」から名前をいただきました。

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