今昔西成百景(042)

◎仮説、殿下茶屋の前からあった天下茶屋

 紹鴎別荘跡地という、すでに解明済の解釈を読売新聞がもち出してきたということは、市が発表に際して「二つの天下茶屋跡」問題を避けるため、あえて紹鴎別荘跡地として発表したのか、新聞社が独自の調査で明らかにしたのかは不明だが、もし新聞社の独自調査の結果ということになれば、大変おもしろい問題がでてくることになる。
 紹鴎別荘地といってももちろん紹鴎の二代目武野宗瓦の時代のことである。

武野宗瓦の受難

 「大阪史蹟辞典」(清文堂)には「しかし武野家は紹鴎が五十四オで没してからは、数奇な運命をたどる。武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五才のとき織田信長に父の遺品「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴻の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家を継いだものの、天正十六年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵品すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長十九年(一六一四)六十五オ病没するが、その場所は定かではないという」とかかれている。

城一つ茶器一つ

 宗瓦は二十九オより秀吉に追放される四十オまでの十一年間、紹鴻の森で父の跡を継ぎ茶店をだしていたのか。この間、秀吉は大阪城の築城を始め、太政大臣となり、九州を平定、北条氏をほろぼし全国を統一し、名実共に天上人となつていくわけだが、千利休を通じて武野紹鴎の茶店(当時の当主は宗瓦)へは一度も行かず、近くの芽木家にのみ足を止めていたとはとうてい考えられない。むしろ紹鴎の茶店(別荘)にしばしば立ち寄っているなかで、何かで秀吉が宗瓦に因縁をつけ追放し、全財産を没収した。それは城一つに匹敵するといわれていた茶器の名品の数々であったはずである。数年後、秀吉は同じようなやり口で千利休に切腹を命じている。
 秀吉が芽木家で、井戸に「恵水」の名と玄米三十俵を与えるという人気とりを行ったのは、恐らく紹鴎の森との名前までつけ、地元で人望の厚かった武野家を取りつぶした悪評をごまかすための、手のこんだ作戦であったと思われる。

日本一とは不遜なり

 それではいったい、秀吉は武野宗瓦の何に因縁をふっかけていったのであろうか。私はそれは当時すでに紹鴎の茶店が、世間では「天下茶屋」と呼ばれていたことではないかと推測する。紹鴎は茶の大衆化をはかるため、往来の人に無料でふるまったので「布施茶」といわれ大評判となり「日本一の茶店」といわれていた、と伝えられている。
 日本一、すなわち天下一、天下茶屋とは何ごとか、不遜なり、と何も紹鴎や宗瓦が自ら名乗ったわけでもないのに、追放処分・茶器没収である。独裁者のよく使う手である。

殿下茶屋否定説もあった

 明治三十二年発行の「南海鉄道旅客案内」のなかにこんな文章がある。「紹鴎の森ともうしまして、茶人紹鴎の旧棲の地であって、豊臣秀吉が堺の政所へ往来の時、この紹鴎の茶店に輿をとめ、風景を賞したことから天下茶屋の名が残っているという伝へですが、否、その以前すでにこの地名があったのだという両説があって定かではありません」以上。
 天下茶屋という地名は、正式なものとしては明治の頃まではなく、その後も先の地名の大規模な変更まではごく限られた地域の名称であったのに、通称としては江戸時代から、今の西成区のほとんどをもうらするものになってきたのは次の三つの要因があったと考えられる。
一、紹鴎の茶店の「日本一」
二、太閤秀吉の「殿下茶屋」
三、そして全国的にひろげたのは、後世、歌舞伎や映画、吉川英治の小説にもなった「天下茶屋の仇討」である。新しくつくられる天下茶屋史跡公園が、ゆめゆめ太閤秀吉一色にならないよう、厳しく注文を付けておきたい。

編者注】
 これで、「天下茶屋」の地名の由来をめぐる話題をひとまず終了します。また、武野紹鴎、是斉屋をめぐる「なぞ」が、すべて解けたわけではありません。より大胆な仮説が提起され、検証されることを期待します。

今昔西成百景(041)

◎天下茶屋史跡公園

 読売新聞平成八年四月十七日付夕刊に「天下茶屋に史跡公園、大阪市計画、日本庭園や茶室,太閤さんしのぶ茶会も」という見出しで次の記事がのっていた。
 「大閤さんが茶の湯を楽しみ、にぎわったことから地名がついたとされる大阪市西成区天下茶屋地区に、大阪市が史跡公園をつくる計画をすすめている。茶室を建てて市民に利用してもらうほか、当時をしのぶ茶会も開く予定だ。世は期せずして豊臣秀吉ブーム。市は『数年来の計画で、ブ—ムに便乗したのではないが、新名所にできれば』と期待している。
 天下茶屋地区は、西成区天下茶屋一-三、岸里東一ーニなどの一帯にあたり、江戸時代の地誌などによると、茶の湯の大成者、千利休(一五二ニー九一)の師である武野紹鴎(一五〇四—五五)の別荘が岸里東二の旧紀州街道近くにあった。秀吉も住吉大社や堺に出向く際にここに立ち寄って、茶の湯を楽しんだとされ、一帯には茶屋が集まっていたことから、その後、天上人と呼ばれ秀吉にちなんで『天下茶屋』の地名が付いたという。計画は、地域の茶道愛好家らが年一回、野だてを楽しんでいる紹鴎の別荘跡地周辺約千五百平方メートルを公園にする。一帯は、空き地や文化住宅で、市は所有者と交渉を進め、今年度中に買収する予定。公園には日本庭園や茶室を作り、別荘のそばには秀吉が『恵みの水』と名づけた泉があったとされることから、茶室前に池を配置して再現、三年後の完成を目指す」というものである。

市の史跡公園第二号に

 最近、市建設局公園課に確かめたところ、用地は七三〇平方メ—トルと新聞発表より小さくなっていたが、今年度中に用地買収をおわり、平成十年度には完成するとのことであった。大阪にゆかりのあった人物の跡地を整備する計画の一環で、天下茶屋が市の史跡公園第二号になるだろうとのことだ。
 「天下茶屋史跡公園」をつくるために、市は天下茶屋公園の「史跡的部分」がじゃまになって、この際とばかりまっさつしたのであろう。公園ができることは結構なことであり、ぜひとも天神森天満宮の縁とつながる、紹鴎の森を思いおこさせるものにしてほしいもの である。

武野紹鴎別荘跡地か…

 新聞発表で気になったことに、用地の面積がその後の市の話とちがうことと、史跡公園予定地が芽木家跡ではなく、武野紹鴎の別荘跡地となっている点である。
 「大阪史蹟辞典(清文堂)には「室町時代末期の茶匠、武野紹鶴は北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道はこの付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鴎は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの社を紹鴎の森と呼ぶようになった。紹鴎は茶の眼目に『和敬静寂』の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた」とかかれている。
 武野紹鴎は弘治元年(一五五五)五十四オで没したとされているが、当時秀吉は十八才、まだ足軽の時代で、茶の湯を楽しむには早すぎる。今までも攝津名所図会大成に「住吉名所図会に豊臣秀吉公此茶店において茶人紹鴎をめして御茶きこしめされしより天下茶屋の名はじまれり、とあるが誤りなり。秀吉公世を治め給ふ天正の中頃より三十年も前に紹鴎は亡き人となれり。紹鴎森があるので作ったもので信用すべからず」とくぎをさされているのである。
 読売新聞の記事が、現場をみれば「芽木家跡」であることは一目瞭然に判るはずで、わざわざカラー写真までのせているのに、あえて「武野紹鴎別荘跡地」としたのには別に何か意図があるのか。私がひそかに抱いてきた一つの疑問と、それは関係づけられるものか。