◎津守「新田」ー津守神社
「新田」とは、近世になって新しく開発された土地のことである。木津川・大和川を中心とした大阪湾沿岸では、江戸時代を通じてこの新田の開発が積極的に行われた。津守新田は元禄期(一六八八 一七〇四)に造成され、同時期の他の新田には、市岡新田・泉尾新田・春日出新田などがある。これらは町人請負新田と云われるもので、当時の町人社会の経済力がいかに大きかったかが偲ばれる。
難工事に袴屋八ケ年の努力
津守新田の最初の請負者は横井源左衛門、金屋源兵衛の二名であったが、土堤が高波にさらわれることとなり、湊屋九兵衛に譲り、湊屋は石堤としたが、又又大風高波のため堤敷石、浪除けはもちろん百姓家までことごとく流失し、遂に親族の挎屋弥助に再び譲ることになった。弥助の工事は古船に大石を積込み、そのまま沈め五、六尺の基礎の上に亀甲型の石垣堤を築き上げるという大工事で、ハヶ年の努力の後、元文五年(一七四〇)漸く完成をみた。時の代官は弥助こそ津守新田の開発者と激賞し、津守新田はその後永く、袴屋新田と呼ばれた。
そして天明四年(一七八四)津守新田は再び初代炭屋善五郎に譲渡されるに至った。その元祖は淡路白山から大阪にでて、縁あって炭屋の養子になった後分家した人。初代善五郎は自ら津守に移り新田の経営に専念した。津守新田はその後幾度となく拡張され、一般には一六〇町歩と称され、明治七年の調査では約四〇万坪となっている。
現在、津守小学校内の北西角に「津守新田会所跡」の碑が立てられており「本校庭の位置には、江戸時代津守新田会所があり、新田地主白山氏の庭園は向月庭といわれ、大阪の代表的名園であった」と記されている。
歴史を見てきた津守神社
津守神社は新田開発のときに勧請され、初めは五所神社、五所大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治四年津守神社と改称し、同五年村社に列した。祭神は天照大御神・稲荷大神・大歳大神・綿津見大神・住吉大神。
ある日の昼下がり、境内に入ってみたが、表通りの新なにわ筋の騒音も途絶えて、まるで別世界。大木もある。鳥居や石垣に「紀元二千六百年」の文字が刻みこまれているのをみて、かっての出征軍人を送る埸面を連想していた。
風水害とたたかいつづけた住民
そこで気がついたのだが昭和十一年建立と記されたものも多いということであった。この謎はすぐに解けた。昭和九年九月二十一日大阪を襲った室戸台風のために、津守町方面は、大阪港から木津川一帯にわたる高潮により各所で堤防が決壊し、濁水氾濫したちまち泥海と化し、全町約三千戸はその殆どが浸水床上に達した。しかも土地が低いため容易に減水せず浸水のまま数日を経過したため、同方面の水禍被害は当区中もっとも激甚を極めた。以上のように記録されている風水害により、津守神社は倒壊していたのである。戦後もジェーン台風、第二次室戸台風と津守地区は大きな被害を受けたが、住民は木津川沿岸防潮堤の完成を要求してたたかった。
今日津守地区の、町づくりでの最大の問題点は、新なにわ筋のダンプ公害と広大な工場跡地ではないだろうか。区民の切実な公営住宅大量建設の要望に応えられるだけの土地が津守に生まれている。抜本的な公害対策を立てるなどを行いながら、こんどは住民による住民のための「新田」づくりにとりくまなければならないと思う。