◎「聖天さん」——海照山正円寺
「聖天山公園内に存在する聖天山古墳は、昭和二十六年に石室が見つかり埴輪や土器・直刀・馬具などの副葬品が出土した確実な古墳である。造営時期は古墳時代の後期、六世紀代と考えられるという。
この古墳の南側にある、「聖天さん」で名高い正円寺の丘陵は、西向きの前方後円墳の可能性も考えられる。もしそうだとすれば、墳丘長は一〇〇メ —トルを超えるであろう」(大阪市史)
「聖天さん」と親しまれているのは、西成区と阿倍野区の境にあり、町名としては阿倍野区松虫通三丁目にあたるが、西成区民に長年地元のお寺として馴染まれてきた正円寺のことである。急な階段を昇ると山門にも「海照山天下茶屋天尊」と掲げられている。
寺伝によると、天慶二年(九三九)権化光道大和尚の開基で般若山阿部寺のー坊で、現在は真言宗東寺派に属する。本尊の大聖歓喜天皇は慈覚大師の作だと伝えられる。
現世利益の「聖天さん」
聖天山奥の院には、鎮守堂・寄松塚・石切分祠,波切不動明王・弁財天祠・などがあり、そのほかにも、ぼけ封じ地蔵・水子地蔵・水掛け不動明王が参拝者の願いを逃がさじとかまえている。因みにこれら神仏のご利益を挙げてみると商売繁盛・家内安全・産業振興・海上安全・開運出世・芸能上達を願うものであった。
「聖天さん」はまさに千年このかた、庶民の祈りと願いの場であったといえよう。
遠ざかる海辺
百度石を廻り疲れて、お寺の庭から西をみれば夕日が海に沈んでいく。人々はここで再び手を合わせる。
はじめは目の下にあった海岸線も住吉街道ができる頃から遠ざかり始め、江戸時代には十三間堀川の西に迄のびたという。
海を望見できるところから海照山正円寺と命名されたのだが、「聖天さん」はまた落日信仰の場でもあったのだ。
「聖天さん」ゆかりの人
以前に毎日新聞の「女の創作」によく入選されていた脇田澄子さんが、千本から「聖天さん」の近くに転宅されてから、もう何年になるか。脇田さんは原稿用紙四枚程度の「掌小説」を作品集にして、毎年手作りで出版されていたが、すでに十号に達するという。先日知人から借りて読ませていただき、感動した。庶民の日常の哀歓がにじみでていて、読み出したら止められない。
小犬を連れて聖天山公園をよく散歩されている脇田さんの胸のなかに、こんな思いがかくされているのかと、微笑ましい限りである。
「聖天さん」と民謡をこよなく愛し、三味線教室を開いておられた井佐原幸子さんが、この二月に急逝されたことは、かえすがえすも残念でならない。
天下茶屋民主診療所を中心にして、西成医療生活協同組合の理事、日本共産党後援会の活動家として永年奮闘されてきた伊佐原さんは、私に民謡の手ほどきをして下さったり、また「現代西成百景」の出版を励ましてくれた得がたい友であった。
伊佐原さんは、「聖天さん」の坂を登りながら、何を願っていたのだろうか。「もっと心を豊かに、もっとやさしく」を先輩からのメッセ—ジとして受けとめて、「聖天さん」の坂を私は下った。
編者追加】
・「『聖天さん』——海照山正円寺」は、「今昔木津川物語(005)」と「今昔木津川物語(020)」でも案内しています。ぜひご覧ください。
・2024年9月9日9時9分に、組合員の皆さんと「平和のつどい・鐘つき」を聖天さんで行いました。スナップと動画を掲載します。
動画 →